よーつべでウロウロしていたら、なんと「昭和残侠伝」のクライマックス・シーン
を投稿してくれた人がいた。
さすれば、流石にそれを紹介しない訳には行かない。
どこぞの新聞社でも、近頃の若者は元気がないとかのたまって、七十年代の
「全共闘」を賛美しているかのような記事を読んだことがある。
そしてその学生運動華やかりし頃、学生に大受けだったのが、この「健さん」
の我慢に我慢を重ねた後の、大暴れと共に「唐獅子牡丹」の歌だった。
http://jp.youtube.com/watch?v=usHcvs5KKrQ&feature=related
「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」 六十六年公開作
再掲載文ですので、悪しからず・・・。
東映の時代劇衰退がもたらした「任侠道」に生きる
男達の物語は、高度成長を続ける日本にあって、
搾取される側でも、懸命に生きているし忘れ去られ
ていく「義理と人情」に愛着を持つ人々にとって、金に
なるんだったら何でもする歪んだ社会に憤懣をもちつ
つも口に出せない。
そこに登場したのが、高倉健の社会から弾かれた吹き
溜まり者にも一分の魂の咆哮がある。
だけに不満のはけ口に大いになり、我慢に我慢を重ねる
主人公の最後の咆哮に、喝采が浴びせられた。
高倉健・池部良のコンビでの殴り込みが定着してくる作品。
長ドスを従え途中で池部良が「お供いたします」の短いセリフと共に、我慢を重ね
た健さんと共に大暴れを繰り転げるが、決まって池部良は途中でやられてしまう。
この道中に流れる「唐獅子牡丹」の渋い歌が、観客をわくわくさせてくれスクリーン
に向って「喝采」を浴びせるし拍手する場になっていた。
それまでのこれでもかの「いじめ」に対するフラストレーションが、見ている人々に
溜まっているから、映画館はとたんに熱狂する。
このシリーズは、七十二年まで九作品が続いたと記憶している。
中でも「死んで貰います」の時は、学生に大人気で「止めてくれるな、おっかさん、
背中の銀杏が泣いている、男東大、どこへ行く」のコピーとともに、東大の駒場文化
祭に健さん風の男が登場し、圧制に苦しむ人々に喝采を浴びた。
あの時代は熱かった。庶民に於いての圧制と学生に於いての圧制とでは、おのずか
ら違いがあったのだが、うねる憤懣と持って行き場のない心情を、スクリーンの大暴れ
が一時でも解消してくれた。
何より健さんの「我慢に我慢を重ねる態度」と後は自らがけじめをつける潔さは、はびこる
欺瞞に鉄槌を下す心地良さがあった。
昭和の名残りが、良くも悪くも七十年代にはあり、一方で高度成長と共に環境が良くなって
行く人々と、それの足場にされた人々という図式が、出来上がりつつある変革の時代で、こ
こに左翼が巧く入り込んでいき、今現在の「無責任体質」を着実に浸透させていった。
学生が「反戦・平和」を叫び運動を繰り広げている間に、圧力団体となった利権にしがみ付く
集団は、それらを巧く利用し行政に取り入り利権を勝ち取っている。
今では「逆差別」となったあらゆる特権は、この映画の時代に出来上がったものである。
「同和対策事業」「在日朝鮮人特権」等、もともと弱い立場が利用され、それに共鳴する学生
と運動が過激になっていった。
とまぁ、「利用された側」が今更、それを言っても始まらないものなのだが・・・。
「時代」は巡るでこの映画のように我慢を強いられる人々の怒りの咆哮を上げる日が、いつか
また来るのか・・・、はたまた利権になったあくどさを隠し持ち煽る人々に利用されるという輪廻
を繰り返すのか・・・、「昭和残侠伝」には考えさせられるものがある。
http://jp.youtube.com/watch?v=_EzwFnDfd5M&feature=related
「昭和残侠伝 一匹狼」 六十六年公開作
十代の頃は、やたら背伸びがしたい年頃か、オールナイトの映画をみるのは、その当時
田舎ではなかなか勇気の居る行為だった。
何しろ午後十時以降は、深夜徘徊で指導員に捕まると即刻学校へ連絡が行き、厳重注
意で、内申書に響くもっともこちらは、それらをまったく気にしなかったのだが、一人では
心もとないから、友人を誘うことになる。
そして私には、どういうわけか品行方正なやからが多く、外泊したことがない等という奴ま
でいた。だけに深夜十二時を回って、映画館に行くまでだってかなりの冒険だった。
まして見る映画は、健さんのヤクザ映画ときている。
しんと静まり返った街並みを、そろりそろりと自転車を漕ぎやっと着いた映画館、その前に
屯するやからの風体に、肝をつぶしながら、映画館に入っていった。
その頃の田舎の映画館は、大体が二本立て興行である。
時間を確かめずに行ってしまう(映画が見たいのか、夜、外に出たいだけかは、今ではは
っきりしない)から、途中から映画を見る羽目になる。
健さんの時は幸い、鶴田浩二の作品の途中だった。それが終わって、一旦劇場内が明る
くなる。劇場は四分の入りだが、私達は身を竦めて身動きしない。
見渡せば怖そうなお兄さんしか居ないのだ。絡まれても困る。
上映のブザーが鳴ると、ほっとした。
東映の海岸のロゴ入りの映像が流れ、私達は食い入るようにスクリーンに見入る。
禁煙の看板もあるが、しかし劇場内は煙草の匂いが充満している。
やがて映画は始まり、どんどんお決まりの騒動が膨らんで
いき、観客のストレスも同じく膨らんでいく。
何しろこれでもかの嫌がらせ、妨害を主役達が受けるのだ。
そしてクライマックスとなると、着流しにドスを持った健さんと相成る。
「いょっ、待ってました健さん!」
劇場のあちこちから、スクリーンに向かって声が飛び、一気にスクリーンと同等の熱さが、
劇場を包み込む。そして健さんの大暴れで、さんざん苛め抜く敵役達が倒されていく。
もっとも途中から、助太刀に加わる池部良は深い傷をおって、(書いていてシリーズものに
なった作品なので、記憶が曖昧で、物語がごっちゃになってしまっている)
健さん一人の大立ち回り、そして相手のボスを倒してめでたし、めでたしで終わるのだ。
見終わると、すっきりした気分になる。
何よりこれから乗り込む時の、健さんと「ご一緒させて貰います」の良の科白に痺れ、
バックに流れる「唐獅子牡丹」に胸が熱くなる。
見終わって劇場を出る頃には、しらじら夜が明け、肩で風切るポーズのお兄さんに混じり、
私達も後ろめたさも不安もなく、堂々と自転車で、家路についたものだ。
善悪を取りざたされる現在の世の中で、あんな健さんみたいな全責任をとれる大人に、
自分はなったのだろうか? 温故知新とは、よく言ったものだ。
ヤクザ映画なれど、学ぶべきものは詰まっている・・。
http://jp.youtube.com/watch?v=mBCul-vO1S4&feature=related
「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」 七十一年公開作
この動画を投稿された方も、今現在の憤り・社会的無責任体制・そして何より、現在の
日本のあり方に危惧を覚えると同時に、不貞のやからをのさばらせる世の中への疑問が
やはり「健さん」の演じる花田秀次郎みたいな、全責任を負いけじめをつける男への強烈
な思いがあるのだろう・・・。
で、今の世の中で一番の悪辣さを持っているのが、表面上と裏腹なマスコミという第四の
権力、良識の知識人は皆無となり、思惑がらみの批判とかどこを向いて記事を書いている
のやらの新聞記者やコラムニスト。
そして知識の欠落したキャスターの重みのない発言、言葉一つで「命のやり取り」をしていた
先人達からすれば、やたらめったら言葉は軽く、人の上にたつ者の無責任・部下への押し付け
言い訳等、どこか日本の敗戦後の教育の変化と共に、おかしくなってきている。
徹底的に企業のモラルを追及し、最終的には倒産に追い込む。
その批判の急先鋒が不祥事を引き起こせば、曖昧な謝罪と簡便な謝罪で打ち切りに打って出て
時の過ぎるのを待っていて、相も変わらず「他人に厳しく、自分に甘い」体質を露呈してしまう。
今回ネットで騒ぎになっている「毎日変態新聞」など、日本を卑しめる文章を海外配信し、その責
任者が経営トップに昇任するという、まるで昭和初期の「悪徳な親分」を想起させる・・・。
日本国民全体を人知れず「いじめ」ても、簡単な謝罪と小さな記事で、相変わらず他人の批判を
記事にしているが、「お前が言うな」が誰も口からも上がる情勢になった。
殊更、時の過ぎるのを待っているのだろうが、記者が偏向記事を書いても、配達は全くそれに関知
していない配達員が、朝早くあるいは夕方こまめにくばってぃるもので、批判を受ける現場の人に
とっては、たまったものではないだろう。
ここは「一刀両断」にして貰いたい。それを考えれば「健さん」待望論が出てきそうだ・・・。
まぁ、健さん並の国会議員や官僚がいればもそっとましな国になっていただろうが・・・。
- 昭和残侠伝 血染の唐獅子
- ¥4,252 といったところで、またのお越しを・・・。