ゴリラと女性の愛情物語「愛は霧のかなたに」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

動物と人間の映画をと考えていて、小さいものから徐々に、猫から豚

そして今度は「ゴリラ」のお話し。

これは創作でなく、実話の映画化で、中央アフリカ、コンゴとかルワンダとか

の内戦状態の国にいる絶滅危惧種のマウンテン・ゴリラの保護に立ち上がった

白人の女性のお話し。




http://www.youtube.com/watch?v=HpbKNcQVgqo

「愛は霧のかなたに」 八十八年公開作

ゴリラの研究に実際にその場に赴き、そこに研究センターを開き研究に没頭する

女性の半生をシガニー・ウェバーが演じているものだが、その女性、こんなに強か

ったのかと、やはりウェバーの芯の強さが表情に表れている顔は、ほんの少しアク

が強く感じられ、密猟者への態度には容赦なく、残酷な仕掛けも厭わないと、どこか

肩入れしすぎの今でいう「空気読めない」人物像として、極貧の田舎にあることをすっ

かり忘れ、ゴリラ保護に邁進・・・。

一方で動物保護のやりすぎは、先進国のエゴも見え隠れするのだが、ここでのウェ

ーバーにそれを感じてしまう。

先人が行なってきた乱獲には文句をつけず、金のための密漁には容赦ない非難で

村人も煙たがるとなってしまい、孤立無援で保護に邁進するも何者かに無残に殺さ

れて、ゴリラに生涯を捧げた女性は潰えてしまうが、ゴリラは保護されて・・・。

邦題に付く愛情の文句だが、ここではそんな視点が欠けているから、どうにも違和感

一杯である。

良く論議される保護か開発かで、似非、行き過ぎた環境保護団体などは足元よりも崇

高なと自身が想像する行動規範なのだが、自然界の論理は「滅ぶものは滅ぶ」の摂理

が敢然とあるものだ。ただ個人での保護活動への情熱は認めるし、都会を離れて山奥

での活動には敬意を払うのは当然だ。ただ貧富の差、内戦のどさくさとそこに住む人々

疲弊してしまい、手っ取り早い生活の糧・・・。少々から回りする保護ではある。

ただ映画としての映像は素晴らしい。何より実物と振り合うかのような特撮の着ぐるみは

リック・ベイカーもの、「キングコング」の着ぐるみも見事であったが、こちらは架空でない

実際にいる動物、それが自然に触れ合っているかのようにの場面は見事である。


ここでもでてくる行き過ぎた動物保護という問題。

ゴリラの場合は密漁という行為によって生体数を減らす原因となれば、解決法はある程

度の経済援助で解決出来るものであるが、その経済発展を成し遂げれば環境問題で保

護でなく、環境問題と相成ってしまう。そして保護か開発かの元に戻った論議となる。

開発先進国が途上国への無理強いはエゴで、やはり「自然の摂理」が納得出来る結論

ではないだろうか。

この映画を見たとき、やはり白人女性の行き過ぎた動物保護は、一点の愛情と多点の無

視によって成り立っていると、捻くれた感想を持ったものである。

日本人でもこの白人と同じで、動物保護を叫ぶ人がいるが、一方でそれで昔のまま貧しい

生活を強いられる人のいることを忘れてしまっては・・・。

あるいは、他文化を批判するというのは、やはり人間のエゴである。



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                          といったところで、またのお越しを・・・。