著作権の切れた良質な映画「西部戦線異状なし」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

ドイツのレマルクが第一次大戦での体験を踏まえて、書き上げた

小説を映画化したのが「西部戦線異状なし」である。

三十年公開という七十七年前の映画である。

で、これについては「反戦平和」を唱える人々にとっても、格好の

題材だけに「反戦」をアピールするのに、よくよく用いられている。



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http://www.youtube.com/watch?v=fqUKnjSLlfY

三十年公開作


http://www.youtube.com/watch?v=9YR8qCAWwHI

ラスト・シーン


この映画の象徴的なシーンは、やはりラストの蝶に伸ばした手と

その時の戦場を忘れた表情、そしてそれが「死は平等に訪れる」

の格言の通り、不条理な死を呼び込む結果となって終わるところ

で、人類の忌まわしい諍いの最後、いや善良な人でも、そうでなく

とも、敵味方という対立構造から生まれる悲惨な出来事。

というところから、導かれるのは戦争はいけない、絶対的平和で

あると、短絡的に考えればそうなるから、「反戦平和」を訴えるプロ

市民と呼ばれる人々は、この映画を絶賛する。

勿論映画としての出来は、すこぶる良く名作の範疇なのは分かる

のだが、胡散臭いプロ市民というところで、なんだか利用された映画

という手垢がついたようで、今ひとつすっきりしなくなるのは、この映

画の公開が三十年であり、その後第二次大戦が勃発している教訓は

活かされなかった。と、なってしまうのであり、止めようがない諍いの

原因へ突き進めなければならず、また恨みの根源を突き止めなければ

未来永劫に諍いは止まることはない。

今現在もどこかの地域では、紛争や弾圧が行なわれている。

で、この映画、非日常のなかにありながら、日常の仕草をしたために、

命を落としたものである。といって、緊張を強いられる時間に正常な意識

を人間がどこまで耐えていられるかとなると、甚だ短い時間ではないか

その結果、狂気へと突き進み自分の命を狙う敵への憎悪を掻き立て対峙

している動物の闘争本能の発露となる。

冷静になれば、後悔も懺悔も出来ようが、その場に於いていかに残虐であ

っても、生存意識の内では自己保身は本能ではないだろうか。

だからこそそこに至らないよう、制御する術を見につける啓蒙が必要となる。

不条理な非日常での狂気の行動、戦争における行為はこれが相当部分を

占めている。

この映画の精神性は、「罪と罰」でなくこういった側面も・・・。


http://www.youtube.com/watch?v=gwwGE_oxjbE

リメイクのテレビ映画 七十九年公開作

こちらの映画には、「皇帝」が登場し、兵隊を表彰するシーンを登場させ、

そして教師が生徒に「国のためにという説教をたれ、志願を募る」シーンと

より戦争協力と主人公の思いを、際立たせている。

ここらに教師の欺瞞と取る見方が出てきてしまい、幼い子供を戦争に駆り立

てる装置としての教師像が出来上がる。

しかし教師の思いと、その後の贖罪としての思いと、長い年月が教師を苦し

める。

そしてラスト・シーンも、雲雀をスケッチしていて、狙撃されると変更されている。

蝶の時は、日常的な思いに非日常の警戒感があるが、こちらはよりその警戒感

が薄れ、となるのは年月の流れが緊迫感の喪失にあるものか・・・。


この映画は、狂気としての戦争の側面と戦場に送る大人の態度、そして歩兵戦の

集団から個になる肉弾戦での格闘と諍いのスケールが小さくなり、観客に闘争の

惨たらしい行為を強烈に印象付ける。

戦争という漠然とした言葉が、個人の争いとなるとより現実味を帯びる。

だが映画として、あるいは小説として現実味ははるか昔で、今の戦争はもっと冷酷

な兵器による、時間をかけないものへと進化して行っている。

だけに「反戦平和」という、まったく空虚な能書きを垂れる人々の、浮世離れな戯言

には付き合いきれない。

「憲法九条」が平和憲法というが、またそれを誇りというが、世界で日本の憲法を知っ

ている人なんて、一握りである。

ほとんど知られてもいない平和憲法をよりどころに、いくら日本で叫んでもそれは無

駄な努力になる。

この映画の教師に対しての罵声も、不条理に対する怒りであって、では敵がそれをも

って銃を撃たないかは、相手の判断であり狂気の蔓延した非日常では、「聞く耳もたな

い」で、叫ぶ口は塞がれてしまう類いなものだ。

というように中立的見方をしないと、この教師の反面としての「反戦平和」を利用して歪

んだ教育を行なう教師像が出来上がってくる。

曰く日本軍は冷酷非情で「悪いこと」をしたである。

六十年も前の出来事を、まるで見てきたかのように話す語り部の誇張と一緒である。

「おじ・おばぁが嘘を言っているとでも言うのか・・」先の沖縄集会での高校生の言葉で

あるが、「嘘を告げている」のだ。と、いえば納得するのだろうか。

とてもしないだろう、この映画の主人公が後輩から「裏切り者」呼ばわりするのに、似て

いる。「洗脳された頭脳」は、思考が停止している。いや楽な方に向えば負担が少ない。

だけに狂気という状態を理解出来ない。

戦争は「加害・被害」のステレオではない。その理解が最も大切であり、叫ぶ行為では

ない。語らずとも通じる思い、本来の日本人が忘れた精神性が大切なのだ。

この映画は、見る人の心情で行く通りも解釈出来る。

それは答えのない名作映画の教えではないか・・・。


                   といったところで、またのお越しを・・・。