リーダー・シップの脆弱さが思い出させる映画「八甲田山」 | 流浪の民の囁き

流浪の民の囁き

映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

明治時代の対露戦を想定した「雪中行軍」という過酷な訓練を

描いた戦争映画があった。新田次郎の原作の映画化である

「八甲田山」には、リーダーの資質とその者の判断によって

「彷徨い・絶望・全員生還」と、失敗か成功かが大きく変わってくる

局面がある、今現在のリーダーと呼ばれる者達の判断の甘さと、

先人達の判断には、大きな隔たりが・・・。



hacuda001


http://www.youtube.com/watch?v=gLh4BDv4_ng

七十七年公開作

この物語は高倉健演じる指揮官の弘前隊と北大路欣也演じる指揮官の

青森隊のもし露西亜戦での経験をしておこうと「雪中行軍」を試みただけの

映画であるのだが、相手は猛威を振るう白い悪魔となる冬山、そこでの指揮

の誤りは、命の取引となる。

作者の新田次郎も映画化した橋本忍も、この事件と原作から教訓として優れ

たものを導き出す「リーダー・シップ」の大切さとその責任の重さである。

弘前隊は容易ならぬ冬の八甲田という認識で準備に取り掛かるが、青森隊は

それとは逆に、一泊二日の旅行気分、もっとも指揮官はそれなりの認識をもっ

ていたが、ここに上下関係という愚鈍な上役が顔を出してくる。

その上、弘前隊は最少人数、青森隊はそれを聞いて最大人数という、指揮官も

危惧する人数に膨れ上がる。

指揮官同士の約束は「雪中行軍」に行き会うというもの。

映画は夏の日から一気に冬の雪景色に変わると、そこからはもう青森隊の苦難

の連続を延々と映し出し、そら恐ろしい教訓を、徹底的に観客に訴えかける。

「天は我々を見放した・・」の科白は有名になった。

渾身の演技の北大路欣也の言い回しが、後悔と自分の不甲斐なさを良く表してい

た場面となった。

もっとも、科白はそこで途切れるが「こうなったら、露営地に戻り死んでいった者の

後を追って死のではないか」となるのである。

この発想は、特撮「戦争」ものでも度々出て来る心情で、僚友を失った時の意識は

現在の脆弱な意識とは雲泥の差がある。

「個が公を潰す」世相になった、曰く「煩くて休めないから、子供の声を何とかしろ」

「給食費を払わないモンスター・ペアレント」等、個人の言いがかりを公に無理矢理

押し付けてくるやからである。

「子供は日本の宝」将来を担う子供に暖かい目を向けようってな、風潮はどこか狂っ

た人々によって忘れ去られ「少子化」だけが取り上げられる。

と、横道にそれたが、この映画に「リーダー」足らん者の意識と責任が良く出ている。

北大路欣也演じる指揮官は、「舌を噛み切って自決」し、その指揮官を悩ました上役

も事の重大さに、救出後気付き「ピストルによって自殺」している。

「判断の甘さ」が重大な結果をもたらす、この教訓を最大限訴えかけた映像であった。


と、この映画を思い出したのは「薬害訴訟」での、この国の最高責任者の受け答えで

責任はどこかに消えている、あるいは痛みを感じない。

それと「年金」における報道である。いくら大臣が鼓舞しようが、これまでも伝えられた

組合のある公務員が、責任を自覚するはずもなく遅々として進むことはないのは分か

りきったことである。これを民間に任せれば、もっとスムーズに事を運ぶのだ。

ところが、マスコミの報道内容は社会保険庁を指揮する政府に向けられている。

ここでこの映画と全く違うのが、その職にいたる一兵卒までも意識しているか、指揮官

はそれを把握しているかである。

社会保険庁でなくとも、官僚という最高責任者が牛耳る、あるいは強烈な組合が牛耳る

組織は、見えない利権と相互扶助という姑息なものに守られて、公の精神が消え去って

いる。なんてことはない、戦後の興廃が戦前の良さを表している。

ただこの映画、シナノ企画なのが少し引っかかる。

「砂の器」も松本清張の「ライ病」への偏見が根底にあり、またこの「八甲田山」も指揮官の

判断がと、とてもいい映画なのだが、資金面の援助で「金は出すが口は出さない」であった

らいいだけれど・・・。


                            といったところで、またのお越しを・・・。