戦争映画での潜水艦を描く場合、どうしても狭い空間と変化のない
室内ばかりが出てきてしまうので、映像的にスピードや緊迫感・焦燥
感を巧く演じられるかが、またキャラクターの違いを巧く演じないと、
のペっとした「眠りのための映画」になってしまうが、この日本の潜水艦
映画は、よく練られたストーリーと、配役の妙と特撮の見事とさが絡み
合った秀逸な作品になっている。
http://www.youtube.com/watch?v=W5mWeMjMMbA&feature=related
五十九年公開作
特撮は自衛隊の旧艦を借り受けての撮影、それに海軍の実写を取り入
れたり、兎に角潜水艦に躍動感がある。
ストーリーは終戦間近の年に、戦況の悪化に伴った和平交渉を有利に
進めるため、某国の外交官親娘を秘密裏に南アフリカへ護送するという、
潜水艦に女という、有り得ない状況を作り上げて、室内劇の軋轢を巧く引
き出して飽きさせない工夫がなされている。
その二人を送り届ける任務を担った潜水艦の内外の出来事、そして敗戦
という時局の揺れに対処する潜水艦乗り達の苦悩・・・。
「潜水艦映画にはずれなし」という言葉があるが、この映画もその範疇に
入る秀逸なものである。
で、潜水艦という狭い空間における連帯感は命のやり取りが一蓮托生に
なるという状況から、より強固なものになる。
以後のこの種の映画というか、最近公開された「ローレライ」はこの映画の
焼きまわしと取れるものであった。
にしても、この当時の日本人にはやはり戦争に携わった人々が多かった、
あるいは知っていたという人がいて、当時の心情が映画によく出ている。
降伏のために送り届けるという戦意喪失する任務と、軍命という越えがたき
使命感の狭間で、しかしそれも送り届ける直前に「敗戦」を知って徒労の行
為になった時の乗組員の嘆きと失望感は、戦争を知らない世代でも共感で
きるものである。
そしてラストシーンの無事送り届けながら、「降伏」に抵抗し武器を使い果た
し自らの潜水艦を持って戦果をあげる。
ようするに「特攻」をするのだが、これも出だしの「回天」の戦果を見届けてい
る。それは僚友の死を意味している。
「むざむざ生き残って、生き恥を晒したくない」「僚友への贖罪意識」という、
当時の日本人の持つ特徴的な「美意識」に突き動かされ、「敗戦を知りながら
特攻という手段を選ぶ」これは先のエントリー「大空のサムライ」での坂井三郎
も同じように、命令を無視して最後の攻撃に出ているのに似ている。
軍命如何でなく、僚友への贖罪、あるいは生き恥が行動の後押しであった。
だからこそ、臆病な米軍は「硫黄島」でも物資不足の日本軍なのに、さんざてこ
ずり、また沖縄「シュガーローフの戦い」でも、精神錯乱する米兵士が戦死者より
も多くなったのだ。米軍が恐れた日本人の精神性を戦後は、褒め称えている。
この映画の最後も、だからこそ「特攻」での玉砕・・・。
すべての日本の戦争参加者への「鎮魂歌」として、「俺達は朽ち果てる、しかし残っ
た日本人は、前に進んでくれ・・・」
一つの日本の精神性を、潜水艦という日の目を見ることのない物体に込めた映画
であったのではないだろうか・・・。
今となっては、精神性は脆弱になってしまい、先人達の想いとは裏腹かも・・・。
といったところで、またのお越しを・・・。