異形に対する残酷な視線「エレファント・マン」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

昨日のエントリー「遠すぎた橋」を書いていて、そういえばこの俳優も出ていた

と思い出した。ほとんどの人が「羊達の沈黙」のハンニバル・レスターとして

認知しているアンソニー・ホプキンスだが、八十年公開の作品「エレファント・マン」

では、ヒュマニズム溢れる外科医を好演していた・・・。



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http://www.youtube.com/watch?v=q2KEN8XBL00

デビット・リンチ監督作品のモノクロ映画。

この監督、「イレイザー・ヘッド」という少々フリークス的

というか、ほとんど怪奇・奇形カルトなものへの執着する

監督である。

その監督がヒューマニズムと相容れない「覗き趣味」を

見せているのが、やはり主人公に白頭巾を被せ、どんな

顔なのかを知らせないところから、その頭巾を取ってしまう

ところには、一瞬唖然とし、ああやっぱりこういう趣味のある

監督は、この実在した人物も、その対象として見ている。

要するに妄想する異形への興味に、見ている客の深層心理

異形に対する一般人の反応、そして見られる方の主人公の

苛立ち、苦悩をある意味楽しむ、ここにアンソニー・ホプキン

スの端正な顔立ちの外科医の内面的葛藤が、ほんの少し

現れる。それは異形に対する興味と一般人的哀れみ、という

ヒューマニズムには、「羊達の沈黙」とは、百八十度違った

演技をするホプキンスの表情が、このグロテスクな映画を

救っている。

「見世物としての生物」から最後は、安らかな死を自ら迎える

決意には、「異形として生きる限界」を自ら放棄する。

こんなところはヒューマニズム的には、とてもいいのだが、

一方、「見世物の死」に対する一般人は、「犬ころ」の死と

感慨は変わらない。

と、一見ヒューマンな映画が、見方を変えると「覗き趣味的、

フリークス映画となる。

もっともこれをあざとくすれば、ハマーになってしまうのだから

出ている俳優の存在は大きい。


          といったところで、またのお越しを・・・。