どこも拾わない水木しげる語録 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

手塚治虫が嫉妬――妖怪漫画家・水木しげるさんの「壮絶人生」と「ポジティブ精神」に最敬礼

 
 
『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』などの人気漫画家で、文化功労者の水木しげる(本名・武良茂)さんが30日、心不全のため東京都内の病院で死去した。93歳という年齢は「大往生」と呼ぶに相応しい。ネット上では「ショック」「ただただ残念」と悲しみに暮れる声や、「不死身だと思っていた」など、90歳を超えても時折元気な姿をメディアに見せていた水木さんの死に、実感が湧かないといった声も非常に多い。
 
「妖怪」という用語を『ゲゲゲの鬼太郎』などを通して一般化し、妖怪研究の第一人者でもある水木さんの功績は計り知れず。彼の存在がなければ、ここ数年大ブームの「妖怪ウォッチ」が生み出されることもあり得なかっただろう。
 
大阪生まれの鳥取育ちである水木さんは、少年時代からその超がつくほどのマイペースぶりで周囲では有名だったようだ。大人になってからもインタビューや対談がつまらない時は、突然散歩に出かけてしまうというハプニングもあったようで、その性格は生涯変わらなかったらしい。
 
10代後半になってもそのエピソードは目を見張るものばかり。大阪の美術学校では教師よりも自分が上だと思って通わなくなる、定員50名に対し受験者51名の園芸学校でまさかの不合格(面接で園芸や農業に興味はないと答えたため)など、風変わりかつ才気を感じさせる日々を過ごしていたのがうかがえる。そして、水木さんの人生観に大きな影響を与える太平洋戦争に赴いたのは、彼が20代前半のころだった。
 
南方ニューギニア・ニューブリテン島での壮絶な戦争体験は『水木しげるのラバウル戦記』(ちくま文庫)や多くのインタビューでも語られている。圧倒的な物量を持つ連合軍への特攻そのもの攻撃やゲリラ戦、島の原住民ゲリラに“落ち武者狩り”に遭いそうになって海に逃げ、ジャングルをほぼ裸で三日三晩逃げ続けた、爆撃を受けて左腕を麻酔なしで切断など、想像を絶する体験の数々だ。ただ、それ以上に驚きなのが、島の原住民であるトライ族と交流し、最終的に集落の「仲間」にまでなった点だ。あまりの楽園ぶりに「ここで一生暮らそう」とまで考えるのだから、やはり常人の感覚を飛び越えている。左腕を失ったことも「命があればそれでいい」と特に気にしなかった模様。すごすぎる。
 
戦火を生き延び、美術学校で学んだ後に紙芝居、貸本を経験して『墓場の鬼太郎』シリーズを刊行。人気作家への道筋を作り、現代漫画の源流の一つとなる「月刊漫画ガロ」(青林堂)の看板作家の一人として活躍した。一時低迷したものの、妖怪漫画の映像化や『ゲゲゲの鬼太郎』が人気を集めて地位を確立。90年代以降は大御所として多くの個性的な作品を送り出し、1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章を受章して偉大な文化人の仲間入りを果たした。
 
水木さんの才能を表すエピソードとして、『墓場の鬼太郎』を見た“漫画の神様”手塚治虫氏が嫉妬に狂ったというものがある。水木さんに面と向かって「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と強がったという。神様に嫉妬されるという点で、そのすごさが分かるというものだ。手塚治虫氏などを筆頭に、人気漫画家は早世で知られている。水木さんは「2日寝てない、3日寝てない」と自慢する人気作家が60を過ぎて亡くなってしまうことに「どんなに忙しくても8時間寝る」と語ったらしい。
 
自分のペースで、自分の好きな仕事を思い切りやっての長寿。誰もがうらやむような人生だが、その裏には戦争や極貧生活などの過酷な体験があり、普通なら潰れてしまってもおかしくない日々もあったはずだ。それでも、インタビューでも明るく楽しい受け答え、90歳でもジャンクフードを食べ続けたりと快活でいられたのは、水木さんが常に背伸びすることなく、ひたすらポジティブに生きてきた結果ではないか。
 
2010年、妻である武良布枝さんが著した自伝『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)がドラマ化されてヒットしたが、ストレスが溜まりやすいとされる現代人の多くに、水木さんの柔らかな生き方がかなり響いたということかもしれない。亡くなっても「天国で妖怪と楽しくやってるのかな」と想像させてくれるあたりもさすが。様々な意味で、多くのものを遺してくれた偉人だった。心からご冥福をお祈り申し上げたい。
 
最後に、水木さんが『わらしべ偉人伝』(扶桑社 03年)で、インタビュアーと交わした伝説のやり取りを追記する。
 
インタビュアー「水木先生は今でも現役でいらっしゃる」
水木さん「もう10年以上ハレンチなことはしとりませんよ」
 
転載元:日刊サイゾー
 
【ここから私の意見】
 
水木しげるさんの訃報に際し、各方面から追悼の声が聞こえます。しかし、マスコミというものは、この種類の話題を美談に仕立て上げます。故人を美化することは、むしろ故人を矮小化するものです。特に水木さんの場合、それに当てはまります。
 
封建主義者で思想家の呉智英は、学生時代に水木さんの資料整理のアルバイトをしていました。そこで水木さんと世間話をする機会があり、水木しげるという人間の面白さを知ったのです(元々水木作品の面白さを知った上で)。呉の著書にある水木しげる語録を、故人を偲ぶ意味で紹介したいと思います(以下、呉智英『犬儒派だもの』双葉社刊より引用)。
 
「あげます」(初対面のアルバイト学生である呉に、自作の漫画本数冊を鷲掴みで突き出し、にやっと笑いながら一言)
「ヨーグルトです」(先の続きで、夕食の親子丼を食べている呉の前に、片手で掴んだヨーグルト瓶を突き出し、にやっと笑いながら一言)
「ほほう、男とやって、それで気持ちええんですか」(三島由紀夫割腹自殺事件があった頃、三島が決起の前夜、同志の青年たちと衆道の契りを交わしていたという噂があることを話した時の感想)
「あの調布飛行場を新空港にしたらどうでしょう。自分もラバウルに行く時に都合もええし」(三里塚の成田新空港建設反対運動について話した時の感想。調布飛行場はセスナ機の離着陸程度に使われる飛行場です)
「戦友たちは、うまいものを食えずに若くして死んでいったんですよ。その戦地に立って、ああ、自分はこうして生きていると思うとですなぁ」「そう思うとですなぁ、愉快になるんですよ」「ええ、あんた、愉快になるんですよ。生きとるんですよ、ええ。ラバウルに行ってみて、初めてわかりました」(水木さんがラバウル通いを始めた頃の話)
「自分はドライだったからです」(もともと虚弱だった子供が水木少年に殴られて転校してしまうという、いじめられっ子に救いのない話を描いた水木さんに、編集者と呉が加筆するよう求めるも、断った時の言葉。編集者がやむなく手を入れた)
「三組の田中も実は朝鮮人だった。六年生の加藤も実は朝鮮人だった。弟の同級生の山田も実は朝鮮人だった。隣町の中村も実は・・・・・・」(水木少年の配下にいた、いじめられっ子が、戦後、商売で成功し、実は朝鮮人だったという話を描いた水木さんに、こういういい話をもっと描いた方がいいと呉が助言したところ、描き上げた作品中の台詞。そういう話を求めた訳ではなく、編集者が全部削除)
 
どうですか。世間の常識や良識、知の権威に囚われない発言の数々です。妖怪漫画の第一人者でありながら、かなりの現実主義者でもあります。マスコミは、これらの発言も取り上げることで水木さんという人間を伝えるべきです(無理でしょうが)。
 
放浪の天才画家、「裸の大将」こと山下清と同じ1922年3月に生まれたという、神様のイタズラすら感じさせる、天然の水木さん。その水木イズムの継承者として、飄々としながら鋭い発言をし、漫画誌「ガロ」系漫画家であるという点では、蛭子能収が一番近い気がします。たぶん世間は認めない意見でしょうけど。
 
水木イズム溢れる著書を今読み返しましょう。
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