水木しげるさん死去 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん 多臓器不全で死去 93歳

 
「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名武良茂=むら・しげる)さんが30日午前7時18分、多臓器不全で東京都内の病院で死去した。93歳だった。鳥取県出身。
 
水木さんは11日に東京都調布市の自宅で転倒。頭部を強く打ち、入院していた。葬儀は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻の武良布枝(むら・ぬのえ)さん。

高等小学校卒業後、漫画家をめざし、大阪で働きながら漫画を学び、戦争中は陸軍の兵隊としてニューギニア方面に出征。戦後は一時紙芝居を商売にしていた時代があった。

1958年に貸本漫画家としてデビュー。「河童の三平」「悪魔くん」などを発表し、「ゲゲゲの鬼太郎」が「週刊少年マガジン」に連載され、妖怪を扱う人気漫画家となり、テレビアニメ化されてからは妖怪ブームが巻き起こった。

幼少時に妖怪の話を教えてくれた老婦人との交流を描いた自伝的なエッセー「のんのんばあとオレ」(後に漫画化)や「水木しげる 妖怪大画報」のほか、「総員玉砕せよ!」「娘に語るお父さんの戦記」など、戦傷で左腕を失った自らの戦争体験に根差した作品も多い。

幼少期を過ごした鳥取県境港市には愛着があり、93年には「水木しげるロード」が設けられ、03年には「水木しげる記念館」が建てられた。10年には妻の布枝さんが書いた「ゲゲゲの女房」がNHK連続テレビ小説として放映され、その生きざまが共感を呼んだ。91年に紫綬褒章、03年には旭日小綬章を受章。10年文化功労者。
 
 
私は1998年から2005年まで東京都調布市に住んでいました。調布市に住むと、街中で水木しげるさんを見かけることが多々ありました。片腕が無く、体格の良い老人なので、すぐに気が付きます。時には調布駅前の真光書店で見かけました。片腕でエロ本を立ち読みしていました。あまりに日常的な光景なので、特に話しかけたり、サインをせがんだりしようと思わなくなります。これが調布市民あるあるの一つ、「水木しげるを見ても驚かなくなる」です。
 
水木さんは、2005年公開の映画『妖怪大戦争』に出演し、妖怪界の長老である妖怪大翁を演じました。その時の台詞です。
 
「戦争はいけません。腹が減るからです」
 
どうですか。南方に出征し、飢餓と疫病で体力を奪われ、敵兵からの襲撃に神経をすり減らしながらも、片腕を失って祖国日本に帰還した戦争体験者のお言葉です。戦争どころか世間の厳しさも知らず、勇ましく「戦争のできる国づくり」を主張する連中の理屈など、この言葉の前では何の説得力もない空論でしかありません。
 
水木さんの代表作『ゲゲゲの鬼太郎』はアニメ化され、主題歌を作者自身が作詞しています。「朝は寝床でグーグーグー」「おばけにゃ学校もしけんもなんにもない」という脱力感あるテイストの歌詞です。そこにも水木さんの思想が反映されています。生き地獄を味わい尽くした戦争の苦しみ、貸本作家時代の極貧生活の苦しみを体験した水木さんにとって、呑気にダラダラ過ごすことのできる日々こそ真の平和だったのでしょう。戦争しなければ得られない平和は偽物で、全人類が妖怪みたいに生きれば戦争なんて無くなるものです。私はそう受け取りました。
 
生前、水木さんは何度も南方のラバウルを再訪したそうです。そこで何を思ったかというと、「多くの仲間が死んだが、自分は生きている。それだけでも愉快だ」という喜びだったそうです。今、水木さんは戦友たちと同じところにいます。
 
ご冥福をお祈りします。
 
水木しげるの遺したものを今読み返しましょう。
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