【映画評】時をかける少女 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

イメージ 1
 
高校生の芳山和子は、学校の実験室で白い煙とともに立ちのぼったラベンダーの香りをかいだ瞬間、意識を失い倒れてしまう。それ以来、時間を移動してしまうような不思議な現象に悩まされるようになった和子は、同級生の深町一夫に相談するが……(映画.comより引用)。1983年公開のジュブナイルSF。監督は大林宣彦で、出演は原田知世、高柳良一、尾美としのり、岸部一徳、根岸季衣。
 
大林監督が、できる限りの映像テクニックを駆使しています。『HOUSE』で見せたオモチャ箱をひっくり返したような映像です。近年だと、『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督の作風に近いものがあります。その映像テクニックは、今見るとショボい作り物感が目立ちますが、それによって見世物感が増幅されています。原田が主題歌を歌うPVみたいなエンディングロールは、映画という見世物のカーテンコールと考えれば、納得できます。
 
撮影当時の原田の存在感が絶妙です。子供でもなく、大人でもなく、女でもなく、男でもない「少女」という唯一無二の存在を体現しています(弓道着姿の凛々しさは、男装して美少年役もできそうだと思わせます)。第1回主演作なので、演技がぎこちないのは確かです。しかし、ナチュラルな素材の良さが、それを凌駕しています。本作のイメージが強いせいなのか、原田の女優人生はミステリアスで年齢不詳な「時をかける女優」になっている感があります。
 
その原田が醸し出す純潔性を、大林監督は隠し味としてのエロスで汚そうとします。幼少期の主人公が指からの出血を吸われるシーンは、怪奇映画のドラキュラを思わせる官能を感じます。また、主人公は劇中で二度も顔を黒く塗られますが、これは女性の人生における出血のメタファーです。一度目は誰の手にもよらず、顔を黒くします。これは初潮です。だから、その後の主人公は体育の授業で見学者のように振舞ったり、部活をサボるようになります。二度目は男の手によって顔を黒く塗られます。これは破瓜です。だから、その後、大人になった主人公は、少女時代の魅力を失い、つまらない大人になってしまいます(大人の女性がつまらないという見方は、大林監督のロリコン趣味だと思いますけど)。血液の色である赤を用いず、黒を用いたところに、モノクロ映画を愛好する大林監督の美学があります。
 
主人公が過去と現在を行き来する不思議な体験は、少女から大人になる時期の心境の変化を表しています。主人公は、過去の記憶が作られたものであることを知ります。すなわち過去の記憶は作為的に変更可能な「理想」なのです。現実と理想が別物であることを知ること、本音と建前を使い分けることが、大人になるということです。だから、成熟した大人ほど、現実と理想の深き断層を知っています。上原謙と入江たか子演じる老夫婦が、いないはずの孫の物を買い集めることに涙するのは、その深さを熟知しているからこその悲しみです。
 
そして、断片的な過去をつなぎ合わせて理想的な記憶を作るという人間の作用は、映画を作る仕事と重なります。フィルムに焼き付けられた映像は全て「過去」であり、それを編集して理想的な物語としての生命を授けるのです。本作で主人公が本当の記憶を知るシーンが、コマ送り的に編集されているのは、実に映画の本質に迫っています。
 
「ひとが、現実よりも、理想の愛を知ったとき、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか? 不幸なのだろうか?」という、冒頭の言葉の「理想の愛」を「映画の夢」に置き換えると、映画監督という表現者の恍惚と不安を言っているかのように思えてくるのです。
 
★★★★★(2015年1月11日(日)テレビ鑑賞)
 
角川映画で温故知新するのもいいかもしれません
イベントバナー