物語論 | 圭一ブログ

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圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

「物語」というものが生まれてからずいぶん経つ。

神話、伝承なんかから始まって、史記、伝記、日記、小説など、「物語」は様々な形をとって変化してきた。演劇、映画、漫画。そしてそれぞれの時代において何らかの意味を持った。

つくられた時代において大きな意味を持ったものもあるし、ある程度時間が経ってからそうなったものもある。

例えば史記、歴史書の類だ。「魏志倭人伝」とか「日本書紀」「古事記」なんかは後世の人々、すなわち現代の僕たちにとって多くのことを教えてくれる。

「源氏物語」みたいに、その時代の人々が我を忘れて熱中し、そして現代に至るまで輝きを失わないようなものもある。「物語」には時間を超える力がある。

だけど時間が経ってから評価されるような「物語」もそうでない「物語」も、それがつくられた時代のあらゆるものと、切り離して考えることはできない。作者の価値観や、物語の題材になった出来事。「物語」はその時代を映す鏡と言ってもいいだろう。

「物語」は娯楽、あるいは教訓を与えてくれるもの、あるいは政治や宗教を助けるものとして、様々な変化を遂げてきた。そして産業革命、インターネットの普及、グローバリゼーションの流れなんかを経て、流通形態も劇的に進化した。東京のどこかで出版された作品が、もう次の日には地球上のどこにいたって読むことができるくらいだ。

流通形態だけでなく、識字率の向上や、「物語」それ自体のカタチが変化してこともあって、現代は一つの「物語」に対して、多くの人々がアクセス可能な時代だ。例えばアメリカのハリウッド映画や日本の漫画なんかは、つくられてすぐに何十万、何百万人のもとに届けられる。

「物語」が大きな意味を持つ、ということについて、もう少し深く考えてみたい。現代風に分かりやすくいうと、ヒットする、ということだ。

史記、歴史書なんかはつくられた当時は、ごくごく限られた人々にしか届かなかったに違いない。だけど長い目で見ると、大ロングセラーになって沢山の人々に読まれ、ただ読むだけじゃなくてあらゆる角度から研究されて、多くの人々を楽しませた。

小説や漫画なら、百万部売れたとか、シリーズ全体で一億部突破とか、同じ映画を全世界で一億人が観たとか、商業的に成功したケースを簡単に見つけることができる。

だけど、大量生産・大量消費の時代という言葉が表しているように、短期的にはヒットしても少し経てばあっという間に忘れられてしまう作品も多い。

例えば「源氏物語」や「スター・ウォーズ」みたいに、人々に広く、そして長く愛される作品に共通する特徴は二つある。

 ・どの時代でも共通して感動できること=「普遍性」
 ・その時代の特徴を正確に捉えていること=「特殊性」


この二つは、一見矛盾しているように見える。だけど「物語」のヒットにとって、この二つは切っても切れない要素なのだ。

「物語」とは人間が人間のためにつくったものだ。普遍的なものとは、複数のものに共通する事柄のこと。

人間は、肉体的にも、精神的にも、「変わらないもの」と「変わっていくもの」の両方を常に持っている。シェイクスピアの恋物語に現在の僕たちが共感できるのは、愛や恋といった物事が人間にとって「変わらないもの」だからだ。

人間が急激に進化すれば違うかもしれないが、少なくとも三、四百年くらいでは変わっていないはずだ。だからシェイクスピアには「普遍性」があると言える。

一方、「変わらないもの」が何かを確かめるためには、時間と共に「変わっていくもの」が何かを知る必要がある。

「物語」の中で初めから終わりまでの時間が一年間なら、一年間の中で変わっていくもの=登場人物の気持ちや、登場人物同士の関係性なんかを描写する必要がある。十年間なら、十年分の変化があって、登場人物が年をとったり、子供が生まれたり、街の様子が変わってしまったりするはずだ。

そしてその「変わっていくもの」を通して、何が僕たちにとって「変わらないもの」なのかを気付かせてくれるのが、面白い「物語」なのだ。

だから、ヒットした作品は、分かりやすいものだろうと、分かりにくいものだろうと必ず「特殊性」を持っている。つくられてから二十年経ってなお大きな意味を持っている作品には、二十年分の「普遍性」と二十年前の「特殊性」がある、と言っていい。