綿矢りさ「勝手にふるえてろ」を読んだ~前編 | 圭一ブログ

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圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

「文学界」8月号に掲載されていた、綿矢りさの中編小説
「勝手にふるえてろ」について書きます。
ネタバレ有りです。

文学界 2010年 8月号

¥950
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綿矢りさ、2年ぶりの新作。
物語の最後の、主人公の一皮むけた感じが、すごく良かった。
自分を信じるってことだけじゃなく、他人を信じることも大事なんだって。

独特の言語感覚と空気感で展開する、ちぐはぐなストーリーも面白くて、
でもその裏には現代のディスコミュニケーションな感じや、
欠落した人間の姿なんかがこっそりと描かれている。
現代小説において、俺が読みたいと思っているのは「悪意」の書きぶりなんだけれど
自分の世界にはまっちゃってる憎めない人物像を通して
かわいらしくポップに、作者なりの「悪意」が込められていて
読み終えた後、充実感があったよ。

綿矢りさとは、年も同じで(学年はいっこ下だけど)
共感する部分もたくさんあって、ちょっと詳しく自分の思ったこと、
読み方について書いてみようと思う。

最初にタイトルが秀逸だと思った。
「ふるえてろ」が「震えてろ」ではなく、ひらがな。
最近の小説だと、津村記久子の「君は永遠にそいつらより若い」、
本谷有希子の「あの子の考えていることは変」なんかが
小説のタイトルというよりはバンドがやってる曲のタイトルみたいで、いかしてる。

あの子の考えることは変/本谷 有希子



「細雪」とか「豊饒の海」も重厚感があっていいけど、
小説というメディアが時代を代弁してるみたいで、かしこまった感じがする。
実際に純文学が担う役割はそういったものなのだろう。
三島由紀夫の「美徳のよろめき」なんかは、不倫=よろめきとして流行語になり、
時代を代弁というか先取りして、日本人の行動に少なくない影響を与えた。
テレビもネットも発達した今、とりわけ中編で、作者が10代から20代の小説は
2000年代以降そんなポップさを兼ね備えていいと思う。お似合いだ。

そもそも、「綿矢りさ」っていう名前が彼女の芸風を象徴しているし
彼女が代弁している現代の空気感を代弁している気がするよ。
「綿」でふわふわしてるのに、「矢」で一気に突き刺す感じ。
そんで理沙でもリサでもなく、りさ。
理沙とかリサだったら、文化人かキャバクラの人みたいだ。
りさって、コンビニか居酒屋のバイトでいそうだし、友達の名前っぽい。

そんな彼女が「勝手にふるえてろ」って言うんだから、これは絶対何かあるよ。
「蹴りたい背中」であんだけ世間を騒がせたんだもの。
蹴れよ、でも蹴らない。蹴りたいんだあくまで。
何が蹴りたいって、背中。特定の誰かの背中。もうひたすらかわいいよね。
次に発表したのが「夢を与える」 そんで沈黙を破って「ふるえてろ」だよ。

綿矢作品の魅力って、漢字をあえて使わずひらがなにするってテクニックの
多用にあると思う。その言葉の選び方が自然で、絶妙な味わいをかもし出している。
物語全体が舌足らずで幼い印象で、でも頭が悪い感じではなく
すべて計算されつくしている気がする。ふすま、ひさしぶり、ひっぱってこられた。
とか。

主人公は元おたくで文系の、会社の経理でエクセルを使ってる26歳の処女。
中二の時好きになった男が、忘れられない。
これが草も食わないんじゃないかって感じの、いかにも蹴りたくなるような男。

だけど本命の彼は、主人公の気持ちに気付くことはない。
そもそも伝えてない。それ以前に名前も覚えられていない。

一方、同じ会社の同期で営業職の、程良く腹が出てきており、そこそこ仕事ができて
結婚に興味ありまくりの男
(R25世代にありがちの平均的な人物像の域を出ないのが、妙にリアルだ)
に好意を寄せられており、
主人公が二人の彼を天秤にかけるという話が展開する。

冒頭から、

届きますか、届きません。

と書く。自問自答していきなり否定されている(している)あたり、
思い込みが激しく、幼く自分勝手で、でも頭が悪いわけじゃない
がんじがらめになった今時の女子って感じがして、一気に綿矢ワールド全開。
続けて、

光かがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。


この古風な感じ。そこはかとない太宰の香りが彼女の文壇の評価を高めているに
違いない。でも「かかと」が出てくるから、
やっぱりこれは平成の、26歳の女子が描いたんだって等身大の物語になる。
最初の三行で独自の世界観をつくりあげるているのは、本当にうまいなあと思う。

女生徒 (角川文庫)/太宰 治


かかとは実際のかかとであり、心象風景の描写の中でメタファーにもなる。
あくまで優しくソフト。粉々にしたわけでもなく、へこんだだけ。
でも足でへこませているわけだから、凶悪で。
26歳の女の子にできるささやかな悪行という気がして、親近感がわく。

悪意は感じられない。綿矢りさの文章には、悪意も皮肉もうがった見方もない。

この後に出てくる、主人公が“なんのこだわりもない結婚”を想像した場面の

招待客用の長いすの端っこでドレスを着たまま知らんぷりで脚を組み、窓枠に頬づえをつきながら雨にぬれた美しい芝生のきみどり色を眺めていたい。

という描写は、悪意というより皮肉というより、コミカルで
フランス映画並みにコケティッシュ。
だから読者は安心して読めるし、ブリたくないけどかわいいもの好きな女の子にも
受ける。

それだけでなく一方では、美空ひばりの「愛燦々と」を

人は……哀スィ……哀スィ―もの、ですね……

とさらりと書いてしまうあたり、オヤジ臭く、
オス化するメスのかわいらしさが濃縮されていて、
これを文学的な懐の深さと評するのはいささか稚拙だろうか!

主人公が思いを寄せる「イチ」(一番好きだから「イチ」、もう一人は「ニ」だ)は
クラスのマスコット的存在で“かわいいよね~。なんか犬みたい”と評され
男子にも女子にもよくイジられている存在。
こんなやつ、確かに学校に一人くらいいたなあ。リアルだ。

綿矢りさは、さらに一歩踏み込んで

 彼は明るくふるまっているけど、本当はなれなれしく接してくる人間におぞけをふるっていて、彼の恐怖のにおいを無意識にかぎつけた興奮して寄り集まる。

と書いて、みだりにキャラクターを記号として扱わない。
それが物語に奥行きを与えている。

加えて、ふわふわのくせっ毛だとか華奢な腕、病的なまでの清潔好きといった
小道具を乗っけてくる。
大人になったイチを主人公が目にする場面なんかは、

 ああイチ、背が伸びたんだね。やせぎすで骨っぽくて、手足が長くて、なんだかすごく大人になったように見えるよ。

とあり、主人公がこのとき若干酔っ払っているとはいえ、
男の子を蹴りたいという企み、または頼りない男性像への偏愛が
びんびん伝わってくる。
これが世の女性の共感を生むのだろうか。

蹴りたい背中 (河出文庫)/綿矢 りさ
まだ草食系なんて言葉、あのころはなかった。



かたや「二」はというと

 二は元体育会系いまはちょっとビール腹といった体格で、伸びたスポーツ刈りの髪を整髪料でかためている、目鼻立ちのはっきりした、できたての弁当の底みたいなほかほかしたあつくるしいオーラの男性だった。

と容赦ない。
容赦ないが、これも確かに同期に一人くらいはいそうな
想像に難しくない造形だ。
他にも“嫌味を言われても気づかない図太い人間”やら
“スープ系の体臭”といった描写、
イチとはどこまでも対照的である。
過去を掘り下げられたりもせず、
人生の影のようなものを背負っている素振りもない。

物語の転機――主人公は“ハロゲンヒーターで布団が燃えかけて死にかけた”ときに
大人になったイチに会うことを決める。
酔っ払って帰ってきてそのまま寝てしまい、あやうく
“ごく普通の日常生活で死ぬところだった”のだ。

考えてみれば今まで無事に生きてはきたけれど、世の中は危険に満ちている。車も電車もすぐそばを走っているし、だれが何を落とすか分からない高層ビルの下を歩き、狂人がまぎれ込んでいてもおかしくない雑踏をすぐに逃げられないハイヒールとスカートという格好で歩いているんだから、今まで無事でいられたのが奇跡なくらい。

当たり前のことだけれど、料理に使う包丁でも、こたつの電源コードでも人は殺せる。
そんな日常を、この小説の中ではうまく舞台装置として使っている。

このあとに、主人公がウィキペディアで収集した絶滅動物の情報から発展して
生物の進化の話が出てくるのだけれど、
生命の危機が進化のきっかけになるのはよく知られた話。
「進化」という現象は物語の中で一貫したテーマになっている。

積極的に主人公との距離を縮めようとする二と、距離がうまく縮まらないイチ。
物語は三人で二組の男女に、交互にフォーカスしながら進んでいく。

二人の彼と自分との対照的な関係性が描かれるが、
主人公の意識は一貫して、相手の男じゃなくて自分に向けられている。
加えて、イチも二も主人公も、自分のことにしか興味がないように描かれており
恋愛という濃密な男女のコミュニケーションを描いているようで、
本作品は「コミュニケーション不在の物語」だと読める。

物語の中にはミクシィという最先端(?)のコミュニケーションツールも登場するが
主人公はイチと再会したいがため、
海外留学中のクラスメイトの名前を無断で使い同窓会を企画する。
当日、自分は素知らぬ顔で、幹事のいない飲み会に顔を出すのだ。
ちなみにミクシィは利用規約で第三者のなりすましを禁止しており、違反行為。

信頼していた親友は、秘密をあっさりばらしてしまうし、
落ちこんで家にひきこもった主人公が久しぶりに携帯電話を開くと
(そういえば、携帯の電源はいつから切っていたのだろう……)
二からの着信履歴を期待していたのに、それがなかったりする。

ツールはあふれているけれど、コミュニケーションのあるべき形が
失われてしまったという現代の姿が、物語の細部にちりばめられている。

綿矢りさの文章には悪意がないと書いたけれども、悪意はあるのだ。
文章に表れていない部分に悪意がある。

インストール (河出文庫)/綿矢 りさ
存在自体が悪意かもしれない小説


例えばこんな場面もそうだ。
地元の同窓会で再会した後、東京でまた集まって飲み会をしようという流れになるが
イチはみんなと予定が合わないから、と渋る。
そこで主人公の心の叫び。

いいよ! みんながあんたに合わせるから! いいよね木村、ちゃんと掃除しとくよね。平田さんは無理なら来なくていいよ。

はじめみんなと予定が合わないからと、やんわり断ろうとしているイチのことを
無理しているんじゃないかとか、主人公はイチをそういうふうに思いやったりはしない。
そして目的のためなら他人(平田さん)もさっくり切り捨てようとしている。
ブラックユーモアがかわいくて、ちょっと笑える。

また、その後無事に木村くんの家で開かれた飲み会で、
“おたく期間が長かったせいで現実世界で自分がどんな行動を起こせば
どんな反応が返ってくるのか想像がつかない”主人公が
(こんな設定を当たり前のように用意するのも十分に悪意がある)
自分なりにタイミングを見計らって雑用をして、
かえって鬱陶しく思われてしまう場面。

 「逆にせわしなくて落ち着かないんだよ」
 木村くんの同僚の男が冗談ぽく声を飛ばし、女の子たちがくすくす笑う。
 あ、空気読めってこと? はいはい分かりましたよ、気を遣ったのが裏目に出たんですね。


空気を読むことを要求してくる周囲を敵視し、空気が読めないことを反省はしない。
テレビで毒舌を吐いている女性芸人に対しても

くるんでるかくるんでないかの違いだけで、考えてることは同じだよ。だから彼女の言うことに大勢の人が笑う。

と、どこか決定的に冷めている。
冷めているというか、女性のこういう二重人格的な側面(男性にもあるけど)について
開き直っている感があって、こういうの好きだ。

二は二で、まだ彼女になっていない主人公が
わざわざ家まで来て料理を作ってくれたのに

「休日出勤、おつかれさま。コロッケ作ったけど食べる?」
「あ~いいな。ありがとう。でも昼もコロッケ定食だったな」


と、男性読者から集中砲火を浴びそうな反応。
どれだけゆとり世代なのかと、どれだけ甘やかされてきたんだお前は!と突っ込みたくなる。

他にも“自分の行きたい場所にいるときは楽しそうにしているのに、自分の興味のない場所だと途端に壁と同化”したり、やたら自分のことばかり話をしたがったり、
自己陶酔が激しかったりと、生きてる世界が狭いという印象を受ける。

イチには名前も覚えてもらえず、二は自分の一方的な欲求を押し付けてくるだけ。
主人公は主人公で、中学生のころに陥った思い込みがずっと継続している。
しかし物語が進むにつれ、主人公はゆっくり気付いていく。

自分はイチに惹かれてはいるけれども、実はまるで兄弟のように、
二とよく似ているのだ。
そうして、ちょっぴり進化がはじまる。
後編へつづく