綿矢りさ「勝手にふるえてろ」を読んだ~後編 | 圭一ブログ

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圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

前編はこちら
ネタバレありです。

視野見(しやみ)という動作というか、テクニックを主人公は使う。
検索しても出てこないから、綿矢りさのオリジナルなんだろう。

視野見とはイチを見たいけれど見ていることに気づかれないために編みだした技で、黒板やら掃除道具入れのちりとりやらを眺めているふりをして、ほんとは視界の隅に入っているイチに意識を集中させる。

でもこれって、視野見なんて単語は聞いたことないけど、
誰でも思春期のころに一度はやったことがあるような気がする。
それにあえて名前を付けることで、主人公のいじらしさ、そして意地の悪さを
強調する効果が出ているのかな。

二学期になると視野見では飽き足らず昼休みにはイチを主役にしたマンガを描き始めた。

おたくで自己陶酔の激しい主人公は、さらにエスカレートしてマンガまで描きだした。
描き方によっては、こんなことをしている女子は気持ち悪くなってしまうだろう。
でも不思議とそんな気はしない。むしろそれがこの主人公の性格なんだって、
自然な行動なんだって感じる。

理由の一つは、綿矢りさがこういう人物を自然に描写できるからだし、
もう一つは、そんな行動に人間を突き動かす衝動やらロジックやらが
案外に普遍的だからなんだろう。
これはちょっと変わった女の子の話じゃなくて、
この物語を読んでいる一人ひとりの物語なんだ。

$A Clockwork Green-BECK 泣ける見開き
参考:「BECK」第34巻より

大人になって再会した主人公とイチは、木村くんの部屋で飲み会をしても
うまいこと二人きりで話せない。
きっかけをつかんだのは、中2の時描いてた漫画、「天然王子」だ。

しかしイチは、それを読んだことがあるのに覚えていなかった。
唯一覚えているのは、運動会の時みんながイチに注目しているのに
主人公は一人だけイチを見ていなくて、気に入らなかったイチが
「こっち見て」「おれを見て」
と話しかけた出来事だけ。

イチは、どうしてそんなことをしたのか覚えていなかった。

 この人なんで私の視線が欲しかったのか気づいてない!クラスでイチを見ないのは私だけだったからなのに。中学のときの私はイチの深層心理にうったえることができてたんだ。いじめのことといい、私はイチ自身よりイチのことが分かっているのかもしれない。

倒錯でも自己陶酔でも、大切な誰かがいて、深く理解できる(理解した気になれる)
って素敵なことだと思うよ。
でもその手段が、主人公にとってはコミュニケーションしないことだった。
周囲と絶対的な差別化を図るために、何かをすることじゃなくて何かをしないことだった。

主人公はその宝石みたいな想いを12年間守って生きてきた。
彼氏もつくらず貞操を捨てることもしないで。

「どうしてわたしのこと“きみ”って呼ぶの」
 イチは私が大好きな、恥ずかしそうな笑顔になった。
 「ごめん。なんていう名前だったか思い出せなくて」


その結果が、上記のやりとり。残酷だねなんだか。
イチがその時見せた笑顔が“私が大好きな笑顔”っていうのが、さらにツラい。

主人公、江藤さんは続けてこう思う。

 江藤さんについて聞かせてと言ってきたときの二の顔が思い浮かんだ。江藤さんのこと聞かせて。私が胸に赤いふせんを付けていただけで、私を見つけてくれた人。

赤いふせんは、二が主人公を好きになったきっかけだ。
忙しさのあまり、胸にふせんがくっついていることにも気付かなかった主人公を見て
二は自分の気持ちに気づいていった。

胸に付いた赤いふせんのことを想像してみる。
経理課の、会社の中ではクールなロボットみたいで、
清潔感のある白いブラウスを着た若い女の子。
そのふくらみから垂れ下がる小さな赤いふせんの情景は、なんかエロチックだ。

物語の中には性描写もなければ、キスシーンすら出てこない。
正直ちょっと期待しながら読み進めていくが、そのあたりはクリーンな小説だ。

26歳にして処女の主人公は、こんな風に思っている。

処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけどなんか必要な気がしてまだつけたままにしてある。自然にはがれたらしょうがないけど、無理やり取っぱらうのは忍びない。


バブル以前の日本の青年の言い草みたいだ。書き出しを「おれにとって、童貞とは」
にすり替えても自然だ。

主人公は処女であることをひた隠しにしているのだけれど、親友の裏切りによって
そのことを知った上で二が、自分に近づいてきたのだということを知る。
知った後の主人公がとる行動は、正直になること。
耳の内側で“私の血が恥ずかしさで沸騰する音”を聞きながら言い放つ。

 「私のことを好きだと言ってくれて、やさしくしてくれて、私はすごくうれしかった。私も好きになれたらと思っておうちに遊びに行ったりしたけど、やっぱり私は片思いしている人が忘れられないみたい。ごめんなさい」

どんな経緯があるにせよ、どんな未来が待っているにせよ、
カッコの中にぴたりとおさめられた言葉は独立して古代の財宝みたく輝きを放つ。
2010年、いま一日に何冊の本や雑誌が出版されている?
一秒間にどれだけのブログがアップデートされ、巨大掲示板のスレッドは膨張している?
なのにこんなに美しい言葉が、他にどれだけあるだろうか。

正直な気持ちを口にして二を拒絶し、親友を失い、
そしてイチはもう主人公の心の支えにはなってくれない。
混乱した主人公は女子トイレに閉じこもる。
そして逃避する手段として、妊娠したと言い張り産休を取ることを思い立ち
すぐに実行する。

処女なのに、偽りの妊娠。処女懐胎か。いやいやそんな大層なもんではない。
ここからのくだりは、女性の結婚、妊娠なんかにかんするあれこれや
年頃の未婚の非処女と高齢処女の軋轢などが描かれる。
正直、男にとってはよく分からないが
26歳の女子にとっては絶大な共感を呼ぶのかもしれない。

主人公は衝動的に電話で二を呼びつける。
この場面あまりに唐突だが、遺伝子がGOサインを出したってことにしておこう。

$A Clockwork Green-海街diary
参考:「海街diary」2巻より

主人公は「イチなんか、勝手にふるえてろ」と他人としてのイチに決別し、
私のなかで“12年間育ちつづけた愛こそが美しい”とうそぶく。
物語は終局へ向かう。二と主人公の言い争い。

ところで主人公はトイレの中で閉じこもりながら、
こんな風に考えている。

 多くの動物は絶滅しないため環境に合わせて進化していく。でも異性獲得のための進化に特化したせいで、逆に天敵から逃げにくく絶滅の可能性を高くするほうへ進化している動物もいる。(中略)人間も、というか私も、そのうちの一種になってしまいそうだ。好きになったたった一人と結婚したいと思いつめるあまり、どんどん年を取って生殖の機会を逃そうとしている。

そうして、二が取った、無様なまでに素直な行動を主人公は受け止めて、
アームストロング船長よりも偉大な一歩を踏み出すのだ。

自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。

この瞬間、主人公の世界は窓を開けて、外界とつながった。
綿矢りさは自分の世界に閉じこもってしまう人間の、弱さでも後ろめたい感じでもなく
例え独りよがりの世界であろうと、しっかり屹立している様と、
それでも抜け道はちゃんとあるってことを描き切ったのだと思う。
これは口当たりのいいレモンドロップのような恋愛小説なんかじゃない。
単なる「救い」でもない。

「勝手にふるえてろ」っていう、どこか華奢な捨て台詞は
他人の視線を気にしてばかりいる、大好きだったイチではなく
トイレの中でうずくまってる自分自身に向けられているような気がする。
生存競争をサヴァイヴするための闘い、ささやかな進化。
平坦な世界観と文章の裏側に、どろどろした悪意を練りこんで、
それでも終わりには温かな他人の胸にそっと飛び込んで、
まるで自分みたいだって安心して、終わる。
いい小説を、読みました。

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