今年、塾生が防衛医科大学に進学した。



進学したのはいいが、4月1日の入寮、そして、5日の入校式をへて、最初の日曜日にメールがきた。




やめたい、と。




自分としては、それはその生徒の人生を大きく変える選択であるがゆえ、軽々しいアドバイスはできなかった。


ただ、自分のキャリアパスをよく考えてみれば、今いるべき場所がどこかわかるのでは、と、それだけ書いた。



その後、彼から返事は来なかった。




それが昨日のこと、一週間ぶりにメールがきた。




メールには、「ここでは一生ものの友人ができそうだから、続ける」、とあった。



短いメールだったが、彼は踏みとどまったことがわかった。



自分としては、すごく嬉しかった。





なんというか、自分のキャリアとか損得勘定よりも、ただ、友人ができそうだから、という、そういうシンプルだけど人情味のある返事がすごく嬉しく思った。



普段、おちゃらけたメールばかり彼からはもらっていたが、なんか初めてマトモな反応が返ってきた気がして、


自分も今回ばかりはマジレスした。






防衛医科大学は、かなり厳しいみたいだ。


でも、規則正しい生活の中で、彼は知的にも精神的にも肉体的にも、かなり鍛えられると思う。


そして、人間関係。人との関わりというのは、何にもかえられない財産になるだろう。



厳しい環境の中で、彼が成長していくことを切に願う。



塾生は、日進月歩で成長していく。


私も負けずに、規則正しい生活から成長を続けたいと思う。

ヤバイ学校の先生たちの噂を聞く。



例えば、松山市の某公立高校の先生がこう言ったそうな。


「塾はやめなさい」



新入生全員にこう言ったそうな。


で、生徒がざわつくと、もう一度、「塾はやめなさい」と大声で言ったらしい。



こんなのは、まぁ、よく聞く話である。


学校の先生は一般的に、塾のことがキライらしい。



しかし、言っておきたいが、


需要と供給の関係で市場が形成されているわけで、


あなたたちの私的感情で市場のあり方を云々しても、


消費者は賢明な選択をしますよ。



まぁ、天にツバするようなマネですね、それは。




ここを見ているヒマな学校の先生たちはいないとは思うけど、


別に私教育が公教育の風下に立つわけじゃないんですね…


って、言ってやりたいです。



というか、だったら、自分たちの指導に従うような授業を構成してみてはどうですか?


準動詞、というコトバの意味もわからん学生を作るなよ、って言いたいですよ。




断言しておきますが、


某北○という高校の英語の授業と、うちの塾の英語の授業とでは、


たぶん、うん○と黄金くらいに違うんじゃないでしょうか。



どちらがどちらかは、判断するのは、消費者ですけどね。




次の日も当たり前のように生徒が授業に出ると思っている人たちに、


うちの塾は授業構成力で負けるわけがないと思っています。


生徒が塾に行かないよう、もうちょっと授業頑張ってみては、いかがでしょうか?




あと、子どもたちにも言っておきますが、


学校の先生の話も、もちろん塾の先生の話も、鵜呑みにしない方がいいですよ。



受験は、人の言いなりになって、やるものじゃない。


就職活動だって、その後の人生だって、全て自分の信じた道を行くもの。


誰かの指示に従うのではなく、


他人の助言を参考にしながら、それを取捨選択しつつ、自分の道を形成し歩んでいってほしいと思います。






次。



某平○という高校の先生は、塾がキライなせいか、


子どもたちに「塾に行かないように」と言うだけでなく、


なんと、子どもたちを19:30分まで強制的に自習させるそうな…。


しかも、土曜・日曜も休まず。




ほほう、ついに実力行使、と来ましたか…




下策中の下策ですが、まぁ百歩譲って、それを許すとしますが、


で、その自習している生徒たちには、理科しかやらせない、とか…!?


春休みなんかは、朝から夜まで、ずっと理科オンリーだったそうです。



ちなみに、その生徒たちは全員、高校3年生・理系です。




少なくとも、自分は以上のように聞いているのですが、


受験指導上、理科しかやらせないというのは、大間違いだと確信します。



ここまで来ると、有害、です。




というか、国公立理系の子どもたちに理科しかやらせない指導が「絶対に」間違いとは言いませんが、


そのやり方をなぜ一般化できるのか、そのあたりは私としては理解不能です。



私は、指導者として、自らの学習方法を生徒たちに一般化してやらせることは絶対にしません。


そんなに自信家じゃないし。




何を考えているのか…、


まぁ、救えない、という絶望感しかないのですが、


せめて学生たちには、自分の頭で考えろ、としか言えないです。


何をやるべきか、何を優先するべきか、を。




はぁ、めんどくせ、としか思えないですね。



もちろん、学校に素晴らしい先生がたくさんいることは分かっていますが、


市場原理の働かないところでは、こういう理不尽な指導がまかり通ってしまうので、


残念なところです。



以上。

小保方さんの、STAP細胞騒動は、まことに残念である。



先日、理研が、STAP細胞の論文の中に捏造と改ざんがあったと発表し、それを小保方さんが異議申し立てをしていたが、自分としては結構あきれた。



「悪意のない間違いだった」と小保方さんは言うが、


では、論文のコピペは、悪意のない間違いだった、とでも言うのか?




論文のコピペはやってはいけないと、大学1年生でもわかることである。


アメリカでは、academic dishonor で、即時退学処分になることだ。


ましてや研究者なら、キャリアが閉ざされるくらいの大事である。




私は、人でも団体でも、ずるい奴が嫌いだが、


小保方さんも、まさか反論してこようとは…、


謝罪できない人というのは、きわめて残念である。


これをもって、なんか彼女の人柄がわかってしまった気がする。






科学者、というのは、世の中の真理探究のために、真摯でなくてはならない。


小保方さんの何が残念かというと、理研という権威ある研究機関にいながら、それがわかっていない、ということである。




実は、彼女は文系の方が向いている。


文系なら、政治的偏向というのがある程度あってもよいから、彼女のようなふてぶてしさはある意味歓迎されたかもしれない。



たとえば、1937年の南京事件なんか、いまだに30万虐殺説を唱える人がわさわさいるが、彼らは事実なんかどうでもいい人たちの集まりである。


事実よりも先に自らの政治的願望、が先に来る、まったくとんでもない人たちである。



小保方さんもさすがにアカデミックの世界では生き残ることができないかもしれないが、政治活動でもさせれば、ずいぶんとたくましい主張ができたのではないか。



アイリス・チャンだって、あんなトンデモ本を書いて、ぼろもうけできていたくらいだし。



なんか、面の皮の厚さだけは、ノーベル賞級じゃないか、と、そんな風に思ってしまった。

移民、を自民党が検討し始めたようです。



毎年20万人の移民受け入れ 政府が本格検討開始


 政府が、少子高齢化に伴って激減する労働力人口の穴埋め策として、移民の大量受け入れの本格的な検討に入った。内閣府は毎年20万人を受け入れることで、合計特殊出生率が人口を維持できる2・07に回復すれば、今後100年間は人口の大幅減を避けられると試算している。経済財政諮問会議の専門調査会を中心に議論を進め、年内に報告書をまとめる方針。ただ、大量受け入れには単純労働者を認めることが不可欠で、反対論も強まりそうだ。


 現在、外国人労働者は高度人材などに制限されており、日本国籍を付与する移民の大量受け入れとなれば国策の大転換となる。


 日本で働く外国人の届け出数(昨年10月末)は72万人弱で、前年より約3万5千人増えた。20万人はその6倍近い数だ。


 政府が移民の大量受け入れの検討に乗り出したのは、勤労世代の減少による経済や社会への影響が現実になり始めたため。成長戦略では女性や高齢者の活用を打ち出す一方で、移民も有力な選択肢として位置付けることにした。


 試算では、2012年に8973万人だった20~74歳人口が、現状のままであれば2110年に2578万人に減る。しかし、移民を入れた場合は7227万人になるとしている。


 だが、移民政策には雇用への影響や文化摩擦、治安悪化への懸念が強い。しかも、現在は外国人労働者は高度な専門性や技術を持つ人材などに限定しているが、毎年20万人を受け入れることになれば高度人材だけでは難しい。単純労働に門戸を開く必要が出てくる。


 政府は移民議論と並行して、外国人労働者の受け入れ拡大を先行させる考え。


 東日本大震災の復興や東京五輪に向けて建設業を中心に人手不足が拡大していることから、最長3年となっている技能実習制度の受け入れ期間延長や、介護職種を対象に加えることなどを検討している。改革案は6月にまとめる新たな成長戦略に反映させる。


 こうした専門性や技能が高くない労働者の期間延長案には「実質的な単純労働解禁で、移民受け入れへの布石」(自民党議員)との批判が出ている。




以上。引用終わり。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140313/plc14031319260010-n1.htm




移民? 冗談じゃない。


はっきり言って、移民受入政策は、亡国への特急券である。



自分は安倍政権の支持者だったけど、これをもって、安倍さんを支持したい気分がかなり減退した。


河野談話見送り、そして、移民、この2つは、自分にとってグラッときた。





かつて日本は、国際連盟で、人種平等案を提案している。世界で一番最初に、国際の場で人種平等を主張した、素晴らしい国だ。


しかし、間違ってはいけないのは、それは日本人に人種平等の観念が徹底していることを意味しない。


日本人は、ただ単に、人種差別を経験したことがないだけだ。それは西尾幹ニ氏が、著書・国民の歴史の中で主張していた。



上の記事では、高度人材ではなく、単純労働者を入れると言っている。つまり、3K労働者たちだ。


自分としては、日本人がやりたがらない3K労働者を受け入れたりしたら、文化摩擦、人種差別、治安の悪化、それらは火を見るよりも明らかだと思う。


いや、それどころじゃない。日本に忠誠を誓わない人たち、特アの人たちが日本に蔓延するだけだ。




自民党は日本をつぶしたいのか?



そりゃ、財界にとっては、賃金の安い、すぐに首を切れる人材が欲しいかもしれない。


それが移民であれ、日本人であれ、利潤を上げることの前にはどうでもいい問題かもしれない。



しかし、その財界の意向に逆らえないとしたら、自民党は真の保守政党じゃない。


売国政党にほかならない。




最近、クリミア情勢がホットなイシューだった。


が、あれは、自分には、未来の沖縄みたいな感じでとらえられた。




つまり、沖縄が中国に編入される未来。




私は、移民受け入れは、絶対に反対である。


バカも休み休み言えよ、といいたい。



全くもって、不愉快な検討。これに賛成する自民党議員の名前は、全員覚えておくことにする。

びっくりしたー


物が倒れる地震ってのは、生まれて初めて経験したかもしれない。


ガリレオ温度計、本棚の本が倒れました。



松山市は震度5、とか。


南海地震じゃなくて、良かったです。



それにしても、真夜中とは言え、あれだけの地震が起きたのだから、すぐ外に出るべきだと思うのですが、



外は僕以外、誰もいませんでした…(w



みなさん、結構余裕ですね!?



どこにいても死ぬときは死ぬかもしれませんが、


地震が起きたら、ドアを開けて逃げ道を確保するくらいは、基本だと思いますよ。



少しのきしみで、ドアは開かなくなることもあるようですし。



地震はもちろん来て欲しくないですが、


でも必ずくるものですから、


地震が起きた時の対策は、きっちりしなくちゃって思います。


三重と千葉で起きた殺人事件で、先日の天声人語を思い出した。


その引用から。




 ロンドンぐらしの失意のなかで、夏目漱石は「自己本位」という言葉にゆきあたった。それまで苛(さいな)まれていた不安が消え、自分の進むべき道を見いだしたという。「私の個人主義」と題する講演で語っている


▼わがまま勝手にふるまうのではない。自分を尊重する以上、他人も尊重しなければならないというのが漱石の考えだった。個人主義を退治しなければ国家が滅びるなどと唱える者があるが、そんな馬鹿なことはあるはずがない、と。このくだりに、いまの改憲論議が重なる


▼憲法の核心とされる13条は「すべて国民は、個人として尊重される」とうたう。自民党の改憲草案はこれを「人として」に変える。「個」をなぜ削るのか。草案づくりに携わった礒崎陽輔(いそざきようすけ)・首相補佐官のホームページには、当該条文が「個人主義を助長してきた嫌いがあるので」改めたとある


▼おそらく自民党内に昔からある声を踏まえたのだろう。いまの憲法こそ日本社会に利己主義をはびこらせ、「家」を壊してきた元凶、という議論だ。とするなら、たった一文字の削除が意味するところは重大である


▼東京都の舛添要一知事は新著でこれを暴論と断じた。個人の対極には国家権力があるが、「人」の対極にあるのは動物であり、憲法論議とはほど遠い言葉だ――。権力を拘束し、人権と自由を守る憲法の役割からすれば、確かにここは個人でなければならない


▼漱石の講演から1世紀。草案前文が尊ぶ「和」に個人が埋もれてしまう事態を危ぶむ。



以上。引用終わり。

(2月24日 朝日新聞天声人語)




塾で仕事をしていて気がつくのは、生徒たちの「社会」離れだ。


「理科」離れ、というのが普通だと思っていたが、そんなことはない。「社会」離れ、が一般だ。



端的に、


みんな、個、というのは十分に持っている。


が、公、というのが抜けているという気がしてならない。



なんだか、「社会の中の自分」、ではなく、


「社会と切り離された自分」、という自覚の子どもたちが多い気がしている。



私としては現場にいて、


子どもたちに「個」なんてのはもう十分すぎるくらいで、


むしろ「公」じゃないか、と思っている。


でもって、この三重と千葉のケースに関しては、「公」がすっぽり抜けた人格がやらかした事件と見る。




公共心の欠如、がとても目立つ気がする。


子どもに限らず、大人にも。


特に政治的アパシーなんてのは、その最たるものだと思う。



一昔前は、なんでもかんでも教育のせい、というのがイヤだった。


しかし、今は、教育でなんとかしなくちゃ、という気がしている。




公と切り離された個、はもういい。


子どもたちには、公あっての個、だという自覚を持たせねばならないと感じる。


そのために、やはりきちんとした歴史教科書を用いて、


郷土史についても学び、


さらには道徳教育も時間をかけてする。



次世代の子どもたちが日本をきちんと運営できるよう、


教育していくことが大切だと感じます。



さもないと、こういう事件は後を絶たないのでは、と感じています。

2014年2月21日、新浪体育によると、ソチ五輪フィギュアスケート女子シングル、フリーの演技が行われ、日本の浅田真央が142.71の高得点を出し6位入賞を果たした。


ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』が鳴りやむと、浅田真央は大粒の涙を流した。これはおそらく、彼女の最後の演技となるだろう。


ソチ五輪後の引退を表明している浅田だったが、ショートプログラム(SP)ではトリプルアクセルの転倒などにより55.51点(16位)という悪夢のような結果となった。金メダル争いから早々と脱落し、多くの彼女のファンがため息をついただろう。


2010年のバンクーバー五輪ではキム・ヨナに敗れ銀メダルに終わり、翌年末には母親を亡くした。夢への道はいばらの道だった。しかし、浅田は今日まで耐え忍んでこの苦しい道を歩んできた。


フリーの演技は、浅田真央のスケート人生の集大成となった。冒頭のトリプルアクセルを成功させると、その後のすべての演技を完ぺきにこなした。142.71点は彼女のフリーでの自己ベストだ。浅田の五輪での別れの演技は、人々を最も震わせ、涙を誘った。彼女は真の勇者であり、最も勇敢な方法でそれを証明した。


演技が終わると、浅田は涙を流した。CCTVの解説者2人も泣いた。日本、世界のどれだけの「真央ファン」が泣いたことだろう。ある種の感動に、勝敗は関係ないのだ。(翻訳・編集/北田)



以上。引用終わり。

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83753




ひとつ前の記事で、天声人語について書いた。


朝日なんて、大キライだ、と。


中国のメディアだって、私はキライだ。


朝日と同様、中国のメディアも普段ろくなことを言わない。



だが、この記事の中で、CCTVの解説者2人は泣いた、とある。


僕は、真央ちゃんの演技を見て涙を流した人とは、無条件で分かり合える、そんな気がする。



どこかの国のKBSとかいう放送局のアナウンサーは、真央ちゃんが転んだところを笑ったそうだ。


それに比べて、CCTVの人は…、



共感できることがうれしい。泣いてくれて、ありがとう、といいたい。



記事の終わりに、『ある種の感動に、勝敗は関係ない』、とある。


ただ、自分としては、『ある種の感動に、国境が関係ない』がすごくうれしかった。



本当にそれがうれしく思える。



オリンピックにおけるスポーツマンシップは、国レベルの話じゃない。


国威発揚の手段としてのオリンピックなんか、いらない。

普段、天声人語はくだらない。


しかし、今回だけは、天声人語をほめたい。立派だ、と思った。


以下にその一部を抜粋する。






数あるピアノ協奏曲のなかでも、ラフマニノフの2番の人気はゆるぎない。


作曲前のラフマニノフは、落ち込んで筆も手に取れない状態だったという。


交響曲1番が失敗作としてこっぴどく叩かれ、自信を喪失した。


どん底から立ち直って作り上げたのがこの名曲だった。


その旋律に乗って浅田真央選手はたたかった。


初日を終えてキムヨナ選手が首位なのはバンクーバーと変わらない。


前回2位だった浅田さんはまさかの16位。落胆は察して余りある。


しかし選んだ曲の誕生に重ねるように、失意から立ち上がり、見せてくれた自己最高点のフリーだった。


雨が降らなければ虹は出ない。


前日の失敗という雨にふられたあと、見事に晴れてかかった虹。


メダルの色を超えた、立派な七色である。それには私達の目も潤んだ。


2週間前はどのページも真っ白だった冬季五輪物語ソチ編も、余白はだいぶ減ってきた。


五輪の神様の鉛筆は、勝者と敗者を描き分けながら、まなざしはどちらにも温かい。



以上。引用終わり。


上記は、正直、すごく美しい文だと思いました。



どうしても政治的立場が違う新聞の社説には批判的に見てしまうものですが、


これに関しては、スポーツはその垣根を越させてくれた、というような気がしました。



この天声人語を書いた人の卓見もさることながら、


真央ちゃんのすばらしさに、改めて感動しました。



オリンピックのさわやかな感動をしばし感じながら、


自分も日々の生活でがんばれることをしていかねばならないと思いました。



息子のため、そして塾生のため。

昨日、ソチ五輪女子フィギュア・フリープログラムを見ました。


ショートプログラムで真央ちゃんは信じられない結果だったので、最後は気持ちよく演技してほしいと願って見ていたのですが…



見終わった後は、バンクーバーの時と同様、感動しました。



なんというか、オリンピックは、メダルの有無じゃないです。


それは結果として、付いてくるものに過ぎず、


やはり、メダルよりも人々の記憶に残るものって、いくらでもあるのです。



僕は、結果が出ることよりも、むしろそのプロセスの方が好きだったりしますが…、


みなさんは、どうでしょうか?




さて、ここでは、「結果」ということに絡めての話になってしまうのですが、


ショートが終わった段階で、真央ちゃんの順位は16位。



つまり、真央ちゃんは普段どおりの力を発揮できなかったわけです。



でも、塾生には、これは他人事だと思わないようにしてほしくて、


このように本番で力を発揮できないことは、勝負の世界では多々あることなのです。



今年も受験生を送り出す前に僕が言ったことは、


「普段どおりの力を出してきてくれ」でした。



試験会場では、普段どおりの力を出すこと、


これが全てです。



そのために、


1.体調万全であること

2.試験会場に時間どおりに到着すること

3.忘れ物をしないこと



この3点を受験前に全員に確認しました。




しかし、試験会場で普段どおりの力を出すことは、予想以上に難しく、


それは常日頃意識しておくことだと思っています。


指導上も、すごく大事なことじゃないかと思っています。




真央ちゃんには、相当のプレッシャーがあったと思います。


受験生にも、国を背負うまではいかなくても、相当のプレッシャーがあるはずです。



それを克服し、試験会場で普段どおりのパフォーマンスをすること、


このメンタルを要請していかねばならないと思いました。







それにしても、フィギュアスケートは見ていて感動しました。


採点はいつも不可解ですが、


でも、世界で真央ちゃんしかできないパフォーマンスを見ることができた。



チャレンジする姿勢、これは本当に美しいです。




日本を代表して真央ちゃんが出てくれたことに、


日本人として誇らしく思います。

現在私の体重は、



77キロ、です。



2年前くらい、一時、瞬間最大風速で64キロを計測したのですが、


現在は77キロ、これも、最近では頑張っているほうで、


ついこの前は不名誉なことに、80キロ超になってしまいました。




髀肉之嘆、とは、このことじゃい。




今後、1年以内に再度65キロを目指します。



できなかったら…



道路に万札でも、投げ銭しましょうわい。





うわさで聞いたのですが、プールの中は、陸より、23倍、効率的に脂肪を燃やせるとか。



ぜひ、試してみようと思います。



塾の改造を施す前に、まずは自分の肉体改造から!