「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。

■1.河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言

名古屋市の河村たかし市長が2月20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったと思っている」と発言した。

その根拠として、河村市長は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から8年しかたってないのに、南京の人は父に優しくしていただいた」と指摘した。

「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。

これに対し、中国南京市は「河村市長は南京大虐殺の史実を否定、南京人民の感情を著しく傷つけた」として、名古屋市との交流を当面中止すると発表した。

両者の姿勢は対照的である。

河村市長は父親の体験を根拠として「南京事件」はなかったと主張しているのに対し、南京市の方は根拠も示さずに「史実」と決めつけている。

さらに河村市長は「互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とオープンな議論を前提とした友好を望んでいるのに対し、南京市の方は河村市長の主張自体が「感情を著しく傷つけた」として議論そのものを拒否している。

そもそも相手の主張に対して、自分の「感情が傷つけられた」などと非難するのは、単に議論を拒否して自分の言うとおりにしろ、と言うのと同じである。

中国の方が根拠も挙げずに「南京大虐殺」を主張して、日本国民の「感情を著しく傷つけた」ことはお構いなし。

こういう姿勢から、真の友好が生まれるはずがない。

■2.中韓の自己正当化のための歴史

近年、我が国は中国の「南京大虐殺」や韓国の「慰安婦問題」など、近隣諸国の歴史攻撃にさらされてきたが「言いたいことがあっても我慢して、心から謝れば、許してくれる」という日本的な美徳が通用しない相手である事は誰の目にも明らか。

やはり、相手の非難に対して歴史事実がどうであったかを徹底的に反論する必要がある。

その意味で、河村市長の「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」という発言は、国際常識に則った姿勢。

歴史のウソを政治宣伝に使うという手段は、古今東西を問わず、広く行われてきた。

特に中国の歴代王朝は自らを正当化するために、前王朝の歴史を悪し様に書くことを伝統としてきた。

現在の共産党政権も「日本軍の侵略から中国人民を解放した」ことを、正当性の根拠としており、そのためにも「南京大虐殺」のように日本軍の悪逆非道ぶりを言い立てる必要がある。

中国文明の伝統を濃厚に受け継いでいる韓国も同様で、日本帝国主義から国民を解放したことを正当性の根拠としている以上、日本統治が立派であったなどとは口が割けても言えない。

政権末期になると、かならず「慰安婦問題」や「日帝(日本帝国主義)36年の搾取」を言い立てて、国民の不平不満を反日の方向にそらし、支持率を維持しようとする。

中韓とも、歴史とは自政権の正当性を主張するためのカードであるから、彼らの歴史とは、史実を追究することを目指す近代的な歴史学などとは、似て否なるもの。

したがって、いくら学問的に論破しようとしても、相手が聞き入れるはずもない。

しかし、まずは日本国民自身が彼らの主張の荒唐無稽さを十分に理解して、彼らの歴史攻撃をはねかえすだけの世論を持つ必要がある。

■3.「脳裏再現性の原則」

長浜浩明氏は『文系ウソ社会の研究』で、戦後左翼が語ってきた様々なウソを列挙し、そうしたウソの見破り方として、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』で説いた原則を紹介している。

その第一が「脳裏再現性の原則」である。ベンダサンによれば、

「「事実」を述べる場合は、語られた言葉のどこかに「明確な写生的表現」が含まれているのが当然で、それがないのは異常だと言うことは確かに言えます」

人間が外部から得る情報の80%以上は、視覚を通じてだという。

したがって本当に本人が見聞したことなら、それを視覚的な光景として表現できるはずである。

逆に脳裏に再現できない光景というのは、ウソである可能性が高いということになる。

長浜氏は、この原則を「南京大虐殺」で自らも悪逆の限りを尽くしたと主張する自称「元陸軍一等兵」東史郎が『わが南京プラトーン召集兵の体験した南京大虐殺』に記述した内容に適用している。

それは次のような一節である。

「日本軍の分隊長が支那人を郵便袋に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、冷やしてやると言って手榴弾を結わえて沼に放り込み爆死させた」

この分隊長・橋本光治氏が登場して、東を名誉毀損で訴えたことで裁判となり、この記述が法廷で吟味されることとなった。

裁判の結果、「本に記載されている虐殺行為を裏づける客観的証拠も、描写を真実として信ずる理由もない」として、法廷は東らに罰金50万円の支払いを命じた。

■4.「彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った」

東は裁判の途中でも、TVに登場して、こう語った。

(ナレーションが東の日記を読み上げる)

「どこからか、一人の支那人(放送ママ)が引っ張られてきた。彼を袋の中に入れ自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った」

(東)「ガソリンぶっかけて、ガソリンというのをね、たった一リッターかけても、ブワッと広がるんです。ボーッと飛び上がりおった。飛び上がって、転がるわけね」

「おい、そんなに熱ければ、冷たくしてやろうか」と言うと、手りゅう弾を2発、袋の紐に結びつけて沼の中へほうりこんだ」

東の証言で、その状況が脳裏に再現できるか、という観点から長浜氏はこう述べる。

「先ず郵便物を人に押込んでガソリンで火をつけた後、どの様にして手榴弾を結びつけたのか。結びつけてから安全装置を外したのか、燃えさかる中でそんなことができる筈がない」

「この郵便袋を池に投げ込んだというが、燃えさかり、手榴弾を結びつけられ、人の入った郵便袋を素手で投げ込んだのか、想像すらできない」

長浜氏の主張をヒントに、もう少し想像してみる。

郵便袋にガソリンをかけて火をつけたら、炎が「ブワッと広が」って、近づくことすら危険。

その中の人間が「飛び上がって、転がる」それを押さえ込み、手榴弾を結びつけるだけで、大やけどしてしまう。

また人間なら少なくとも50キロはある。

水中とは言え、手榴弾を爆発させるなら危ないから少なくとも10メートルほどには遠くに投げなければならない。

スーパーマンならいざ知らず、普通の人間がどうやったら、50キロもの人間入りの袋を、しかも燃えさかっている状態で、何メートルも投げることができる?

そもそも、この分隊長は、自分が大やけどをしたり、手榴弾の爆発で大けがをする危険を冒してまで、なぜこんな手の込んだ遊びをしなければならない?

どうにも脳裏で再現することが不可能な光景。

判決で「描写を真実として信ずる理由もない」というより「描写をウソとして信ずる理由ばかり」と言うべき。

■5.「機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し」

もう一つの例を取り上げてみる。

東京裁判では「南京大虐殺」で26万人以上が虐殺されたと判決を下したが、その根拠の一つが次の証言だった。

「敵(日本)軍入城後、まさに退却せんとする国軍、および難民男女老若合計5万7048人を幕府山付近の四、五ヶ村に閉じ込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者すこぶる多し」

「1937年12月16日の夜間に至り、生き残れる者は鉄線をもって二人を一つに縛り四列に並ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。しかる後、機銃をもってことごとく掃射し、さらにまた、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて焼けり。焼却後の残屍はことごとく揚子江中に投入せり」

機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し、さらにその屍を揚子江に投入するなどという手間のかかることを、なぜ日本軍はしなければならない?

そもそもこの証言者は、こういう虐殺シーンに立ち会いながら、どういう風に生き延びた?

日本兵に見えない透明人間として現場を見ていたというなら分かる。

これも前節の例と同じで、脳裏に思い浮かべることのできない光景。

■6.「数字補強の原則」

もう一つのウソを見破る方法として、ベンダサンが挙げているのが「数字補強の原則」。

脳裏に情景が浮かばないのに、日時・時間・距離・金額その他の数字が異常に正確なものは、数字によって信憑性を補強しようとしており、その数字を子細に検討すれば、「必ず数字に矛盾が出てくる」とベンダサンは言う。

この証言でも「5万7048人」という数字が出てくるが、「四、五ヶ村」もの広域に閉じ込められた人数を、しかも「凍餓し死亡する者すこぶる多し」という危機的な状況の中で、どうしてこんなに正確に数えられる?

それも、村の数ですら「四、五ヶ村」としか、数えない人間。

この証言書は書面として提出されただけで、証言者に対して弁護側が反対尋問する機会は与えられなかった。

アメリカ人弁護士は

「本人を出廷せしめて、直接反対尋問することは、(英語を話す国民においては)常識である」と批判している。

それが出来なければ

「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分からない人間の証言を使って審理することになる」という。

東京裁判で26万余名の虐殺があったとする判決の根拠の一つが、この「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分からない人間」の証言した「5万7048人」なのである。

■7.遺体埋葬数の不思議

もう一つ、26万余の犠牲者があったとする根拠のうち、大きなものは、南京市崇善堂という慈善団体が犠牲者112,266体の埋葬を行ったという資料である。

その詳細数値が期間毎に出ており、これを一日平均埋葬数として算出すると、以下のようになる。

・昭和12年 12月  506体

・昭和13年 1月  49

・     2月  87

・     3月  77

・     4月 8,060

事件直後の1912年12月こそ、一日あたり506体もの遺体を埋葬しているが、その後、49体、87体、77体と減少している。

3月までの記録では、埋葬場所も記録されており、合計で7,548体であり、ここまでは理解できる。

ただ戦闘での死者もありうるから、当然のことながら、埋葬数=虐殺数ではない。

それが事件後、5ヶ月目にして、一挙に日当たり8,060体と百倍にも急増している。場所は城外というだけで、記載がない。

弁護側は、日本軍が清掃した後で、5ヶ月も経ってから、合計10万4718体もの死体が残っているはずがない、と主張している。

この記録も、証人を喚問して、弁護側が反対尋問をかけたら、すぐにウソがばれたはず。

「南京大虐殺30万人」とは、こんな数字から出てきている。

■8.中国に「南京大虐殺」カードを捨てさせるには

中国の言う「南京大虐殺の犠牲者30万人」の根拠とは、この程度の子供騙し。

そして、中国政府はそれを知りつつも、今後も「南京大虐殺」という外交カードが有効である限り、それを使うことをやめない。

この外交カードを無効にするためには、まずは日本国民の中で、中国の言う「南京大虐殺」がどれほどいい加減で、根拠のないものであるかをよく認識する必要がある。

そして河村市長のような発言が出た場合に、広範な国民的世論でしっかり支持をし、中国側が友好行事の中止などと揺さぶりをかけても「どうぞご勝手に」と無視する姿勢が必要。

逆に、日本の政治家や外交官が、目先の「日中友好」を求めて「南京大虐殺」を史実として認め、すぐに謝ってしまおうとしたら、それに対する轟々たる世論の非難を浴びせかけなければならない。

政治家や官僚が、国家国民の名誉よりも、自己の保身や功業を優先すれば、当然、その報いを受けなければならないというのが民主政治の正道。

日本国民がこのような確固たる世論を確立して、中国が「南京大虐殺」は外交カードとして効力を失った、使っても損をするだけだ、と悟った時、彼らはその使用をあきらめる。

要は日本国民の自覚の問題。

■参考■

1. msn産経ニュース、H24.2.20、「『南京事件なかった』と河村名古屋市長 中国共産党の市常務委員に『互いに言うべきこと言おう』

2. msn産経ニュース、H24.2.24、「【主張】河村氏の南京発言 これで問題視されるとは」

3. 長浜浩明『文系ウソ社会の研究』展転社、H20
海洋大国ポルトガルの最後の冒険者モラエスは、日本に何を求めたのか。

■1.「海洋大国ポルトガルの最後の冒険者」

まだ4月末だというのに、ポルトガルの首都リスボンの日差しは日本の初夏のようにまぶしい。しかし、海からの風が爽やかで、それほど暑さは感じない。

狭い坂道を上ったり降りたりしながら、テージョ川が大西洋にそそぐ河口に着くと、そこには高さ50メートル以上もの「発見のモニュメント」がある。

大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子、アフリカ南端を回ってインドへの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマ、ブラジルに到達したペドロ・アルヴァレス・カブラル、世界一周を達成したマゼランなどの巨大な石像が、帆船の舳先に並ぶように立っている。

モニュメント前の広場には、大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年号が記されており、日本には「1541」と書かれている。

彼らが、日本を「発見」した年である。ポルトガル人は最初に日本にやってきたヨーロッパ人であった。

そこから河下に向かってさらに10分ほど歩くと、河口を護る要塞、ベレンの塔に着く。その屋上からは、はるかに広がる大西洋が見渡せる。大航海時代には、ベレンの塔が見下ろす河口を何隻もの巨大な帆船が出港していっただろう。

主人公、海洋大国ポルトガルの最後の冒険者と言われるヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスも、この塔に見守られて、海に乗り出した一人であった。


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■2.「神に祝福されたこの地」

モラエスが最初に日本を訪れたのは、1889(明治22)年8月、35歳の時だった。

長身に金髪、青い目をしたモラエスは、貴公子然として物思いにふける控えめな男だった。

その彼が副官を務める砲艦「リオ・リマ」は本拠地マカオを出発し、香港、上海に立ち寄った後、東シナ海を横断して、長崎に入港したのだった。

最初に訪れた諏訪神社からは、坂と石畳の街が眼下に広がり、険しい山並みに囲まれた長崎湾が明るく輝いていた。その光景は、彼の故郷リスボンを偲ばせたが、日本の山並みを覆う深い活き活きとした緑は、その比ではなかった。

「ぼくはすばらしい国、日本にいる。ここ長崎で、世界に類のないこれらの木々のかげでぼくは余生を送りたいものだ」

諏訪神社の鳥居をくぐった参道では、茶店に入り、優雅で可愛い着物を着た二人の娘の出迎えを受けた。丁重なおじぎに驚かされ、日本茶とカステラが出された。

任地マカオと、それを取り巻く中国の荒廃と苦悩、不潔と混濁に比べれば、日本の地は「まるでまっ暗な洞窟から花園に出たような」驚きを与えた。魅入られるような10日間を過ごした長崎を去るにあたって、リスボンにいる姉のエミリアには、こう書き送った。

「みごとな風景にあふれ、花にあふれ、微笑にあふれる、神に祝福されたこの地を去るよ。魂がやさしい想念にいだかれるようにと、生活に疲れた精神がなお浄化されて神慮に対して感謝を捧げることのできるようにと作られたこの地を」

「神に祝福されたこの地」で「余生を送りたいものだ」という願いは、モラエスの人生を導く予感だったのかもしれない。

■3.おヨネとの幸福な日々

1899(明治32)年、数年がかりの本国への嘆願が認められて、ようやく神戸に副領事館を開き、副領事として来日する事ができた。

モラエスはある料亭で、おヨネという芸者と出会った。どこか愁いを宿したような美しい目鼻立ちの女性であった。モラエスは料亭に何度も足を運び、自宅にも招いて、熱心に求愛した。

おヨネは自分が病気がちなことや、学歴も教養もないことを語ったが、モラエスは「そんなこと、何も問題ではありません」と言って、取り合わなかった。おヨネが療養に故郷の徳島に帰った時も見舞いにいった。

そうしたモラエスのひたむきさにおヨネは根負けしたようで、明治33(1900)年11月、結婚式をあげた。神戸きっての料亭で披露宴が行われ、神戸在住の外交官や知名人が多数招待された。モラエスは羽織、袴(はかま)姿で緊張し、白装束の花嫁・おヨネは息を呑むような美しさだったとモラエスの友人は回想している。

モラエス40歳、長い彷徨の(ほうこう)の末にようやくたどり着いた幸せであった。おヨネはつつましく後ろに控えながらも、いつも相手のことを気遣う女性だった。

モラエスは、おヨネの体を気遣って、お手伝いを二人おいたが、おヨネは「私も何かしなくては」と、領事館に花を飾り、モラエスの身の回りの世話を焼いた。おヨネの存在が領事館をしっとりと、それでいて華やいだものにした。領事館を訪れた人々は、モラエスに影のように寄り添うおヨネの領事夫人ぶりに感嘆した。

モラエスは早朝と夕方に、おヨネを伴って散歩した。近くの布引の滝や、生田神社の森、そしておヨネの体調の良い時には須磨の一ノ谷あたりまで足を延ばした。三つ揃えの背広姿のモラエスと、束ねた髪にべっ甲のかんざしを挿し、粋な着物姿のおヨネの二人連れは、仲の良い夫婦として近所の評判になった。

■4.「日本の風景」、「孝」

おヨネとの安らぎの日々は、モラエスの文筆への意欲を蘇らせた。マカオに駐在していた頃から、故国の雑誌に記事を送っていたが、おヨネと一緒になってからは日本人の生き方や文化、自然について、味わい深い文章を次々と発表した。それらは故国ポルトガルやブラジルで広く読まれるようになった。

たとえば、「日本の風景」と題した小品では、富士山や近江八景などの名所を紹介しつつ、次のように述べている。

「絶望と苦悩を感ずる壮観な風景はめったに日本の名所にはない。繊細で、ほほ笑ましくて、たいていはやさしく美しい景色ばかりであって、ただ時々、思いがけなく恐ろしい天災-台風、洪水、地震-が、一時悲しい外観にするだけである」

「人間を愛し、人間を楽しますために、娘のように美しくきらびやかな色調の着物を着飾っている家庭的自然である」

また、大津の石山に蛍狩りに行った際に、偶然知り合った女性から聞かされた身の上話という設定で、「幸」という随筆を発表している。

「おゆき」という女性が裕福な商人の家庭に生まれ育ったが、15歳で父が病死して、京都で芸妓となり、病気の母親や幼い弟妹を養っているという話である。

モラエスが「これから先、どうするのか」と訪ねると、おゆきは「先のことは少しも心配していないし、成り行き任せ」と答えて、闇夜に光を放ちながら飛ぶ蛍を指す。闇の中を、自ら光を発しながら飛ぶ小さな蛍のように、おゆきは生きている。

自らの人生を犠牲にしてまで家族のために尽くす生き方は、近代的な個人主義が広まりつつあった西洋人に対して、かつての古き良き時代を思い起こさせるものであったかも知れない。

■5.「オヨネサン ヨクナラナイ ワタシ コマリマス」

明治42(1909)年、モラエスは55歳になっていた。おヨネは病気がちとなり、熱を出して床に伏せることが多くなった。おヨネはモラエスに心配をかけることが心苦しく、悲しげな表情で詫びた。

明治45(1912)年6月20日、長雨がカラリと晴れ上がった爽やかな朝、おヨネは気分がよいのか、起き上がって朝食の準備を始めた。モラエスは久しぶりにおヨネとの外出を思い立ち、人力車で一の谷に赴いた。淡路島が浮かぶ穏やかな海には、遠くに白い帆船も見えた。

道路の脇には、簡素ながらも威厳のある3メートルほどの高さの五輪塔が建っている。一の谷の合戦で、熊谷次郎直実に討ち取られた平家の若き公達(きんだち)、敦盛(あつもり)の墓である。

墓石のざらざらした褐色の表面に、ヨーロッパの大男の無骨な手と、日本女性のしなやかな小さい手が重なった。墓石はまるで血が通っているかのように生のぬくもりが感じられた。

その数日後、おヨネの容態が急変した。オランダ人の医者に、身内を呼んだほうがいいと言われ、モラエスは徳島にいるおヨネの姉のユキに電報を打った。翌朝、ユキと娘のコハルが駆けつけ、看病を続けた。

モラエスは仕事も手につかず、「オヨネサン ヨクナラナイ ワタシ コマリマス」といいながら、部屋の中を右往左往していた。

■6.相次ぐ悲しい出来事

7月末、明治天皇が崩御された。モラエスは、日本が明治天皇のもとに国民が一体となって発展している様を好ましく思っていただけに、日本の一つの時代が終わったと感じた。

この頃、母国ポルトガルでは国王と王子が共和党に暗殺され、次男が一度は王位についたが、すぐにイギリスに亡命するという革命が起きて、800年の歴史を持つポルトガルの王制は崩壊した。

モラエスは政党には関わり合いを持たなかったが、新しい共和国には、自分の居場所はないと感じた。

8月10日過ぎのこと、おヨネが、「もうだめなような気がする」と、か細い声で呟いた。

モラエスは「きっと直る」と励まし、おヨネのやせ細った手を握りしめた。

おヨネは首を振り「でも、もう少し、生きたかった」と哀願するようなまなざしを向けた。

左の薬指にさした金の結婚指輪がゆるんで、ずり落ちそうだった。

おヨネは、モラエスにこれまでの礼を述べ、遠慮がちに身内の将来のことを頼んだ。

死を悟りながらも、なお身内を案じ続けるおヨネの優しさがモラエスにはたまらなかった。

そして、最愛の女性を助けてやれない自分の無力さに耐えきれずに、涙ぐんだ。

後に、モラエスは隠遁の地として徳島を選んだ理由の一つとして、この時のやるせない思いをあげ、「今でも手を握られている気がする」と書いている。8月20日、おヨネが世を去った。享年38歳だった。

明治天皇の崩御、祖国の動乱、そしておヨネの死と、相次ぐ悲しい出来事に、モラエスの憂愁は募った。鴨長明の『方丈記』のフランス語訳をむさぼるように読みふけり、おヨネの仏壇のある部屋に閉じこもる日々が続いた。

■7.徳島での生活

おヨネの死の翌年、大正2(1913)年7月、モラエスは徳島に向かった。本国では、モラエスを東京駐在のポルトガル総領事に昇進させようという動きもあったが、本人は「自分も59歳になり、日本流に言えば還暦だ。祖国のためにはもう十分義務は果たしたと思う」と述べ、領事職も軍籍も返上して、一私人となった。

モラエスはおヨネの墓を徳島に建て、その墓参りの際には、「オヨネサン。ヒトリサビシイ。ワタシシンダラ、イッショニウメテモライマス」とつぶやいた。

移り住んだ徳島の地は、神社やお寺、墓地が多く、土地の人々は毎朝、亡き人に挨拶して食事を捧げ、訪問客も仏壇の前でお辞儀をした。生者は死者への追慕を抱き、死者は生者の心の中で生きていた。

神々に見守られたやさしい「家庭的自然」の中で、生者と死者が心通わせながら生きる徳島の生活に、モラエスは慰めを見いだした。「徳島はなんといっても、神々の街である、仏陀の町であり、亡者の町であるいってよい」と書く。

朝は6時に起き、井戸で水を汲んで、冷水摩擦をした後、再び着物を身につけて、東天を拝して、柏手を打つ。付近からも、近隣の人々の打つ柏手のさわやかな音が響く。

それから明治天皇のご真影に手を合わせ、神棚を拝み、おヨネの位牌を安置した仏壇に向かって、何度も戒名を唱える。その後で、おヨネの姪、コハルが準備した和食の朝食をすませる。

朝食後、しばらく読書や執筆に没頭した後、9時頃から、おヨネの墓参りをかねた散歩に出る。12時頃、散歩から戻って、昼食後、しばらく読書や執筆をした後、また夕方から同じコースの散歩に出る。散歩は雨の日も風の日も続けられた。

モラエスは、その後、コハルと子をもうけたが死産となり、またやがてコハルにも先立たれた。一人暮らしとなって、ある雨の夜、暗い戸の鍵が開かずに困っているところに、一匹の蛍が飛んできて、その明かりで鍵を開けるのを助けてくれた。思わず、モラエスは「あれはおヨネだったのか、それともコハルだったのか」とつぶやいた。

■8.最後の冒険者の求めた道

モラエスは昭和4(1929)年に75歳で亡くなった。折れそうになったタンポポをまっすぐに直そうとしたり、子供たちが捕らえたフナやドジョウを一匹1銭で買って川に放してやったり、近所の子供たちを可愛がった静かな余生だった。

ポルトガル人は大航海時代に、富や名声、知識を求めて、世界の果てまでも乗り出し、一時はブラジルの金などを得て、繁栄を謳歌した。

その海洋大国ポルトガルの最後の冒険者と言われたモラエスは、ユーラシア大陸の西端から長い旅路の果てに、東端の日本にやってきて、やさしい自然の中で、死者も生者も神々も、共に平穏に生きる道を求めたのである。

■参考■

1. 林啓介『「美しい日本」に殉じたポルトガル人―評伝モラエス』角川選書、H9
本日の梅田でのカウンターの制限に対して、曽根崎署警備課に抗議の電話を入れておきました。

(1) プラカを在特会側に向けさせなかったのは過剰な制限であり、市民の表現の自由を警察が奪う行為であるから違憲。

(2) 声を出すのを禁じたのも同様。

(3) トラブル防止のために両グループを引き離す措置を取ることは理解するが、表現の自由のもとに差別街宣を行なっている者に対して、差別の当事者または市民が抗議する権利を奪うことまではできない。

(4) 今後は弁護士等を通じて問題にしていくが、署内でも対応について今一度再検討してほしい。

とか言ってたらいきなり家に警官が訪ねて来たので逮捕されるのかと思ったわ!

「レンタカーが塀をこすったので大家の連絡先教えてちょ」とのこと。

野間易通さん

2013年4月27日

内偵の初期段階として警察がよくやる方法

普通の人間なら警察が家に来る=逮捕って思考にはならない。

公安にマークされる一生

こいつらに関わると人生を棒に振る結末。