皇太子殿下は世界の水問題で、民の幸せを無私の心で祈るという皇室の伝統精神を発揮されている。

■1.「殿下への高い評価は日本人だけが知らないのでは」

皇太子殿下は国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をお務めになり、また平成15(2003)年の京都、平成18(2006)年メキシコ、平成19(2007)年、大分、平成20(2008)年スペイン、平成21(2009)年トルコで行われた世界の水問題に関わる国際会議で、講演をされている。

日本のジャーナリストが、水問題の海外の専門家に「海外での殿下の評価はどうか」と質問したところ「どうしてそんな質問をされるのか。それは愚問というものだ。殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知らないのでは」と、やり込められる場面があった。

世界水フォーラムを運営している世界水会議のロイック・フォーション会長は、記者との会見で、「皇太子殿下のご存在は、水の分野におけるオム・デタ (Homme d'Etat) だ」と述べた。

フランス語のオム・デタは英語で言えば "Statesman"、無私の心で国家公共の事を案ずる元首や見識ある政治家を意味する。その反対が"Politician"、日本語で言えば「政治屋」で、自分の野心で政治に携わっている人間を指す。

無私の心で国民の幸せを祈られるのが、我が皇室の伝統であるから、殿下は水問題で、皇室の伝統的精神を発揮されている。こうした事をあまり報道しないのも日本のマスコミの偏向と言うべきか。

■2.世界の諸問題の根幹にある水問題

貧困や飢餓の問題を辿ると、水問題にぶつかる。

たとえば、アフリカには広大な土地があるのに、なぜ飢餓や貧困で多くの幼い命が失われているのか。水がないからである。水さえあれば広大な荒れ地や砂漠が、緑の農地に生まれ変わる。

中国のように乱開発から砂漠化が進み、黄河が年に半分近くも干上がり、大都市では飲料水ですら危機的状況にある国もある。

水は足りなければ問題だが、多すぎても問題を起こす。地球温暖化や異常気象も、海面上昇や集中豪雨による河川氾濫などの水の問題を通じて災害を引き起こす。津波もその一つである。

平成21(2009)年3月にトルコ・イスタンブールで行われた第5回世界水フォーラムでは基調講演で、徳川家康が当時の江戸湾にそそいでいた利根川を銚子から太平洋に出るようにして江戸の洪水を防いだ事例を紹介され、こう述べられた。

「平地の少ない日本では、時に猛威をふるう河川を流域全体で適切に管理することが、国民生活の持続可能な発展に必須の条件でした。そのための努力が日本では継続的に続けられてきたのです…」
「水関連災害については、災害直後には盛んに議論されますが、しばらく経つと忘れ去られがちです。日本には、「災害は忘れたことにやってくる」ということわざがありますが、災害が起こってからでは遅すぎます」

「災害を起こさないような備えこそ求められているのです。そのためには、昔も今も変わることなく、絶え間ない努力によって、一歩一歩、地道に歩みを進めていくしかないのでしょう」

■3.「非常に示唆に富んだ、政治的な立場を超えたところでのご発言」

国連水と衛生に関する諮問委員会委員の尾田栄明(おだひであき)氏は、過去の水フォーラムに参加した人々と話をしていると、殿下のご講演についての感想がよく出てくるという。

「第3回世界水フォーラムの琵琶湖・淀川の舟運(しゅううん)の話が一番印象に残っている」とか、「メキシコでの、大都市江戸で発生する屎尿をうまく農地に還元利用する循環型社会の成立に関する話が大変印象に残っている」という具合である。

「殿下は人と水との関係を非常に高い立場から、日本の長い歴史をふまえて具体的な事例を示しながらお話しになっています。だから非常に示唆に富んだ政治的な立場を超えたところでのご発言として世界の人に受け止められるのだと感じます」

殿下は2007(平成15)年の第3回世界水フォーラムで名誉総裁をお務めになり、2010(平成18)年の第4回世界水フォーラムでも基調講演で、非常に印象的なメッセージを語られた。

こういうことから、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をやっていただけないか、との希望が、国連側や委員の間から強く出された。

赤十字や福祉など公共の事業団体の活動をバックアップされるのが皇室の伝統的な姿勢であるが、殿下の場合は、それが国際的に広がったということである。

■4.割れんばかりの拍手

トルコで開催された第5回世界水フォーラムでは、首脳級のサミットが初めて開催され、192カ国の首脳・関係大臣を含む政府関係者、国会議員、多数の国際機関、民間企業、学者らが約3万人も参加したという。

その開会式で殿下は英語でスピーチをされたが、最後の部分はトルコ語で、次のように話されたという。

「ご列席の皆様、世界の隅々にまで安全な水と衛生を届けようと長い道のりを進む私たちの活動は、例えてみればシルクロードを行くキャラバンのようなものかもしれません」

「『ミレニアム開発目標』の達成に向かい、またさらにその先へと向かう水のキャラバンに、この第5回世界水フォーラムが新しい知恵と連帯、そして先へ進む勇気を与えてくれることを願い私のあいさつといたします」

かつてトルコを通ったシルクロードを持ち出し、その砂漠の道を行くキャラバンはまさに水問題に取り組む人々の具体的なイメージでもある。会場は割れんばかりの拍手に包まれたという。

■5.「皆の胸中にある意欲や想いがかき立てられていく」

殿下のご姿勢は、我が皇室の伝統そのもので、人々を指図したり、諭したりするものではない。

「折りに触れ世界の水関係者がご接見を賜るのですが、殿下は大変聞き上手でおられるようです。殿下にご接見を賜ると、普段寡黙な人まで饒舌(じょうぜつ)になります」

「例えば、エジプトの水資源大臣を務めたアブザイド氏は、普段はほとんどお話しにならないのですが、殿下とのご接見では最初から最後まで話し続けられたとのこと。後になって、「どうしてあんなに喋ったのだろう?」と自分で不思議がっておられました」

第1回アジア・太平洋水サミットに向けて、東京で開催された準備会合の折にも、アジア・太平洋地域の水問題の専門家たちがバスで東宮御所を訪問したが、帰路には「我々はもっともっと頑張らなければならない」と大変盛り上がったという。

「勿論、殿下からあれをやろう、これをやろうと言われるわけでは全くないのですが、殿下とお話しをさせていただく中で、皆の胸中にある意欲や想いがかき立てられていくという感じなのです」

こうして殿下とお話しできたことがアジア・太平洋水サミットの設立に大きな力になったという。

天皇皇后両陛下が、被災者たちの声を聞くことで、彼らを元気づけられ、また自衛隊や警察などの救援者たちが、いっそうの使命感をもって活動にあたる。

それと同じことを殿下は世界の水問題の専門家たちに行っているのである。

これが「オム・デタ」ということである。

■6.世界の人々を苦しめている水問題に向かう御心

殿下はどういうきっかけで水問題に深いご関心を寄せるようになったのか。

大分で行われた第1回アジア・太平洋水サミットの記念講演で、そのことを語られている。

殿下は、1987年にネパールのボカラをご訪問になった際にご自身で撮られた、サランコットの丘付近で多くの女性や子供たちが水を求めて水瓶をもって行列をつくっている光景の写真を紹介されて、こう述べられた。

「水くみをするのにいったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。女性や子どもが多いな。本当に大変だなと素朴な感想を抱いたことを記憶しています」

「その後、開発途上国では多くの女性が水を得るための家事労働から解放されずに地位向上を阻まれており、子供が水くみに時間を取られて学校へ行けないという現実があることを知りました」

「また、地球温暖化問題の多くが、水循環への影響を通じて、生態系や人間社会に多大な影響を及ぼすことも知りました」

「このようにして、私は、水が、従来自分が研究してきた水運だけでなく、水供給や洪水対策、更には環境、衛生、教育など様々な面で人間の社会と生活と密接につながっていのだという認識を持ち、関心を深めていったのです」

■7.二十五歳の青年が示した壮絶な「覚悟」

自分が研究してきた水運とは、殿下が英国オックスフォード大学でテムズ川の水運問題を研究されていたことを指す。その研究が、次第に現代の水問題にまで広がっていった、ということである

2年間のオックスフォード大学留学を終えて、帰国途上の殿下を産経新聞記者の尾崎龍太郎記者がインタビューして「私的、体験的皇太子論」という一文を残している

当時、殿下はアメリカのどこかでお見合いをされるかも知れないと、マスコミが執拗に殿下を追い回していた最中であった

そんなある時、わたしは、(マスコミの騒動に)いたたまれなくなって、「直接話しかけてはいけない」という協定を破り、殿下にこう申し上げた。

「殿下、申し訳ありません。かけがえのない自由を楽しまれている時間にお邪魔ばかりしておりまして」

すると、殿下は、微笑を浮かべられて、きっぱりとおっしゃられた。

「いいえ、自由は二年間オックスフォードでじゅうぶんに堪能しましたから」

たった二年間の自由。

それだけでじゅうぶんに堪能したといわれる殿下。

この返答には今後は天皇家のご長男としてひたすら国民のことだけを考えて「天皇の道」を歩まれる「覚悟」が示されている。

もう自分の人生には自由はない。二十五歳の青年が示したなんと壮絶な「覚悟」ではないか。

■8.「まっすぐに前を見つめ続けられる御目のひたむきさ」

水にちなんで、殿下は次のようなお歌を詠まれている。

水もなきアラビアの砂漠に生え出でし草花の生命(いのち)たくましきかな

平成21(2009)年の歌会始めで、御題「生」に寄せて披露されたお歌であった。これは15年も前の平成6(1994)年に、殿下が妃殿下とともにサウジアラビアを訪問された時の事を思い出して、お詠みになった歌であるという。

妃殿下は、この歌会始はご体調不良のために欠席されていた。妃殿下、そして殿下のお歌が読み上げられるなか、テレビはまっすぐに前を見つめ続けられる殿下を映し出していた。

殿下はなぜこんなに昔の事を詠まれたのかの著者の一人、鈴木由充氏はこう書いている。

「それはサウジアラビアが妃殿下とともにご訪問になり、妃殿下とともにご覧になった国だったからという以外に私は答えを見つけることはできない。そう考えると、このお歌も、どんな逆境にあっても必ず妃殿下のご回復を信じておられる、殿下のまっすぐな祈りが託されているように感じられ、新たな感動が湧いてきた…」

とはいえ、殿下のお歌には、私的な感傷に浸るような響きは微塵もない。

あくまでも、ご公務のひとコマを公人として切り出すことに徹しておられる。

それは、テレビに映し出された皇太子殿下の、まっすぐに前を見つめ続けられる御目のひたむきさそのままであった。

皇太子殿下の53歳のお誕生日での記者会見では、東日本大震災の多くの被災者がいまだ仮設住宅で厳冬を過ごされていることを気遣われた後、3月初旬にニューヨークの国連本部で開催される「水と災害に関する特別会合」において、基調講演を行う事を述べられた。

今回は、過去の水災害を記した古文書をひもとかれ、「私としてはそういったいろいろな日本の過去の経験を今回国連の場でお話しして、そして世界の多くの方々の参考にしていただければと、そういうふうな思いでおります」と語られている。

皇太子殿下は、「まっすぐに前を見つめ続けられる御目のひたむきさ」で、日本のため、世界のために歩まれているのである。

■参考■

明成社(編集)『皇太子殿下―皇位継承者としてのご覚悟』
酒に酔って殴りかかった若き明治天皇を、山岡鉄舟は体を張って諫めた。

■1.「近代世界の大帝王」

1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御されるや、英国の首相アスクィスが即座に下院に提出した追悼動議は、満場一致で可決された。その際の演説で彼はこう述べている。

「余は歴史上、日本天皇陛下の如く一治世の短期間に、その国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその必要かくべからざる進歩発展を成就し給いたる君主の名を挙ぐる事能わず」

アメリカでもニューヨーク・トリビューン紙は、「日本先帝陛下はその御治世の至重至要なるがため、疑いもなく歴史上近代世界の大帝王中に伍し給うであろう」と評した。同様の論評が世界各国で相次いだ。

幕末の日本は東洋の一小国として近代史に登場したのだが、半世紀後の大正日本はすでに世界の五大国の一つとして数えられていた。

この世界史に記すべき日本の大躍進を導いたのが明治天皇であった。

しかし、明治天皇ははじめから偉人天才であったわけではない。

明治元(1868)年に即位された時は、まだ15歳。

英明な青年ではあったが、それが世界各国から称賛される大君主にまで大成されたのは、君側にあって天皇を将来の日本の指導的人格としてお育てしようと努力した人々がいたからである。

その中心人物の一人が、山岡鉄舟。

■2.明治天皇の侍従

維新前の天皇は公家や女官たちに囲まれて、とかく文弱に流れやすい環境にあったが西郷隆盛はこれを問題視して、明治天皇を近代国家を指導すべき、心身ともに強健な君主に育てようとした。

そのために、それまでは天皇の側近に侍する者は貴族に限るというしきたりだったのを改め、各藩から勇壮な武士を集めて、側近につけた。

その一人として幕臣から選ばれたのが、山岡鉄舟(鉄太郎)。

若い頃からひたすらに剣と禅の修行を積み、幕末には江戸に迫る官軍に乗り込んで和平を講じ、内戦の危機から日本を救った鉄舟の人格、胆力に西郷は惚れ込んでいた。

鉄舟こそ、天皇を育てるべき人物だと考えたのである。

西郷の推挙に、鉄舟はその任ではないからと極力固辞したが許されず、とうとう「それでは10年だけ」ということで出仕することになった。

時に、明治5(1872)年6月、鉄舟37歳の時であった。明治天皇、弱冠20歳前後の頃である。

明治天皇も剛毅な側近たちとの交わりを好み、夜遅くまで彼らの武勇伝に聞き入ったりして、西郷も「君臣水魚の交わりに至った」と喜びを語っている。

■3.「山岡っ、立て!」

そんな中で、この事件が起きた。

ある日の晩餐に片岡侍従と鉄舟が陪席した。

天皇はしきりに盃を重ねられながら

「わが日本もこれからは法律で治めるようにしなければならぬ」という議論をされ片岡侍従に向かって「お前のこれについての意見を申せ」と仰せられた。

片岡侍従は「国家を治める大本は、道徳に在りと存じます」と申し上げると「いや、それは昔のことだ。今の世に道徳など何にもならぬ」と天皇は言下に反駁された。

片岡侍従はそれに対しても、また意見を申し上げる。

こうして議論に花を咲かせて、盃を重ねられたが、天皇はそれまで黙っていた鉄舟を顧みて

「山岡、お前はどうだ。私の意見に賛成か、それとも不賛成か」とお尋ねになった。

「ハイ、恐れながら、法律だけでお治めになりますと、人民は伊勢の皇大神宮を拝まないようになりはしないかと存じます」と鉄舟は答えた。

■4.「山岡っ、立て!」

痛いところを突かれて、ぐっと行き詰まった天皇は、途端に御機嫌が悪くなり、黙々と大杯を傾けておられた。

そして突然、立ち上がられて

「山岡っ、相撲を一番来い!」と言われた。が、山岡は動かない。

「山岡っ、立て!」

「恐れ入り奉ります」と、鉄舟は平身低頭した。

「では座り相撲で来い」

と鉄舟を押し倒そうとされたが、鉄舟の体は大地に根を張ったように、押せども着けども動かない。

身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢で、なおかつ剣の達人である。

怒った天皇は、右手の拳を固め、鉄舟の眼をつこうとして勢い鋭く飛びかかった。

鉄舟がわずかに頭を横にかわすと、天皇は勢い余って、鉄舟の後ろに倒れ込んだ。

「不埒な奴だッ」

顔か手をすりむかれたようなので、片岡侍従はあわてて天皇を別室にお連れして、侍医に応急の手当てを命じた。

■5.鉄舟の覚悟

鉄舟は静かに次の間に引き下がり、粛然と控えていた。

片岡侍従は、すぐに謝罪するのがよいと勧告したが、鉄舟は頭を振って応じない。

「いや、私には謝罪する筋はござらぬ」

「しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくない」

その言葉に、鉄舟は決然と自説を述べた。

「何を言われるか。あのとき私が倒れたら、恐れ多くも私は陛下と相撲をとったことになる」

「天皇と臣下が相撲(すま)うということは、この上ない不倫である」

「だから私はどうしても倒れるわけにはいかなかったのだ」

「もしまたあの場合、わざと倒れたとしたら、それは君意に迎合する侫人(ねいじん)である」

「君は私が体を躱(かわ)したのを悪いといわれるかもしれないが、私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ」

「しかし、陛下が酒にお酔いになったあげく拳で臣下の眼玉を砕いたとなったら、陛下は古今希な暴君と呼ばれさせ給わなければなるまい」

「また、陛下自身、酔いのさめた後に、どれほど後悔遊ばされることか」

「陛下が負傷遊ばされたことは千万恐懼に堪えぬが、誠に已むを得ぬ次第である」

「君は私のこの微衷(びちゅう、本心)を陛下に申し上げていただきたい」

「それで陛下が私の措置を悪いと仰せられるなら、私は謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟でござる」

■6.「私が悪かった」

そこへ別の侍従が来て

「陛下はもうおやすみになったから、とにかく一応は退出されたがいいでしょう」と言ったが鉄舟は「聖断を仰ぐまでは!」と動こうとしない。

侍従たちは持てあまして、侍従長に報告した。

侍従長もやってきて説得したが、鉄舟は頑として受けつけない。

そのうちに天皇は眼を覚まされ、「山岡はどうしたか」とお尋ねになった。

侍従が鉄舟の言い分を奏上すると、天皇はしばらく黙然と考えておられたが、やがて「私が悪かった。山岡にそう申すがいい」と言われた。

侍従はすぐに鉄舟にその旨を伝えたが、鉄舟は

「御聖旨は畏(かしこ)いきわみだが、ただ悪かったとの仰せだけでは、私はこの座を立ちかねます。どうか御実効をお示し下さるようお願い申し上げます」

と、なお強硬に主張した。

そこで天皇は

「今後、酒と相撲をやめる」と誓われた。

鉄舟は感涙にむせんで「聖旨のほど、ありがたく拝承し奉る」と言上して退出した。

夜はもはや明けなんとしていた。

鉄舟はそれから一向に出仕しなくなった。

侍従を差し向けて、出仕を促しても、ひたすら謹慎中と称して出仕しなかった。

一ヶ月ほど経ったある日、山岡は突然出仕し、御前へ伺候して葡萄酒一ダースを献上した。

「もう飲んでもよいか!」と天皇は非常なお喜びで、鉄舟の面前で早速、その葡萄酒を召し上がったという。

その後も、天皇の鉄舟に対する信任は厚かった。

明治15(1882)年、47歳の時、西郷と約束した10年が経ってので鉄舟は宮内省を辞した。

しかし、その後も明治天皇の特別な思し召しで、生涯宮内省御用掛を仰せつけられている。

この10年間、鉄舟の禅と剣で鍛えた人格は、若き明治天皇に多大な人格的影響を与えたものと思われる。

■7.臣下の公、天皇の公

特に、この時の体験で、若き明治天皇は鉄舟から「公私の分別」を学ばれたのではないかと想像する。

鉄舟は「私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ」と言って、負傷という「私事」にはまったく構わない。

ただ、陛下が「古今希な暴君」と呼ばれるようになっては、侍従としての公の使命が果たせない。

明治天皇から体をかわしたのは、あくまでも公的な使命のためで、自分の体を護ろうという私心からではないことを、鉄舟は明らかにした。

侍従から、この鉄舟の言い分を聞かれて、若き明治天皇はご自分のとっての公私とは何かを深く考えられたであろう。

侍従たちと酒を飲んで歓談するのは、君主にも許される「私」である。

しかし、酒に酔って議論に負けたのを怒って、侍従の眼を砕いたとすれば、それは国民の信頼を裏切り、君主としての「公」をないがしろにする行為である。

わが国における君主とは、国家を私有財産のごとく見なして好き勝手に振る舞って良いという私的な存在ではない。

ひたすらに民の安寧を祈るという公的な使命を持っている。

この点を「知らす」と「うしは(領)く」という言葉で、明らかにしたのが、大日本帝国憲法と教育勅語の起草に参画した井上毅。

「うしはく」とは、君主が土地や人民を私有財産として領有し権力を振るうこと。

一方、「知らす」とは天皇が鏡のような無私の御心に国民の思いを映し、その安寧を神に祈るということ。

明治天皇は、天皇としての最も大切な「公私の分別」をこのような体験を通じて学ばれていったのだろう。

■8.ひたすらに国と国民を思われる御心が支えた日本の躍進

その後の明治天皇は、その長き御一生の間、ひたすらに国のため、国民のために御心を砕かれた。

その一端が日露戦争時の御歌に窺われる。

寝覚めしてまづこそ思へつはもの(兵士)のたむろ(集まっている所)の寒さいかがあらむと

目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、満洲の地での兵士らの宿営の寒さであった。

いたで(戦傷)おふ人のみとりに心せよにはかに風のさむくなりぬる

風が寒くなると、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取り、看病であった。

明治天皇は生涯で9万3千余首の御製(御歌)を残されたと言われているが、日露戦争が勃発した明治37(1904)年だけで7,526首。

一日20首以上も詠まれた。

それは、朝目覚めては兵士等の寒さを思いやり、風が急に寒くなっては傷病兵らの看護を気遣うという日々だったのである。

日露戦争は明治日本が臨んだ最大の国難であったが、明治天皇のひたすらに国と国民を思われる御心が、政治家や軍幹部を通じて、将兵、国民の間に広く伝わり、それが国民一丸となって国を護ろうとする気概に繋がったのだろう。

その気概なければ、わが国は日露戦争に敗北し、ポーランドやフィンランドのように、ロシアの属国になっていたに違いない。

明治天皇が御一代の間に、「その国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその必要かくべからざる進歩発展を成就し給いたる」と英国議会で称賛される業績を上げられた一因は、若き頃に山岡鉄舟のような偉大な人物の薫陶を受け、君主としての公的な使命を深く自覚された所にあると考える。

■参考■

1. 大森曹玄『山岡鉄舟』春秋社、S58
「昭和の日」は昭和天皇崩御後は「みどりの日」と制定されていたが、平成17年(2006年)になってやっと「昭和の日」に改定された。

宮中には水田があり、天皇陛下ご自身が田植え、稲刈りをされるが、これを始められたのは昭和天皇であると言われている。

明治天皇も赤坂御所に水田をつくられていたと伝えられている。

昭和天皇が稲作をお始めになったのは農民の苦労をより身近にしのぶため言われている。

始められたのは昭和2年であり、農業恐慌はこの2年後なので、恐慌とは関係なさそう。

また、昭和天皇は植物学者であるから品種特性の遺伝関係を研究されるという目的もあったといわれている。

テレビで天皇陛下が稲刈りされているお姿が報道されるが、作業服に長靴姿であり、われわれは違和感を感じず見ている。

西洋の王室などでは絶対にこのようなことはしない。

「日本書紀」には天照大神が水田を営み、新嘗の祭りを行っている。

われわれ日本人は神様が働いているのだから働くことはいいことだと無意識に思っている。

「勤勉」な日本人の伝統がある。

だから天皇陛下が稲作をされているのを見ても違和感を感じない。

昭和天皇は朝食はほぼ毎日、洋食をおとりになり、昼食と夕食は和食と洋食を交互にとられていた。

朝食はトーストもしくはオートミールにサラダ、果物、温野菜、ミルクが定番。

昼食や夕食の和食は丸麦入りのご飯、秋刀魚の塩焼き、オムレツ、ほうれん草のお浸し、香の物、お汁。

洋食であればハンバーグに付け合せの野菜、スープ、パン、サラダといった具合。

カレーライスやチャーハン、カツ丼も食べられていた。

ごく普通の家庭料理。

和食に天ぷらやお刺身がつくのはお客様がこられたときぐらい。

陛下の料理人を務めた人すべてが一般の家庭よりも質素な食事に驚いたと口をそろえる。

食材も御料牧場や築地の市場から仕入れる。お米も標準米。

大東亜戦争終戦直後まもなくは食糧事情が悪く、昭和天皇は侍従長を呼んで「皇太子以下食べ盛りの子供たちはそうもゆくまいが、私の食事だけは国民と同じ配給量にしてくれ」と述べられ、侍従長とお勝手元である大膳課は大いに困ったという。

また自分の食べるパンが白いのはなぜか?と、大膳課におたずねになられ、アメリカから入ってきたメリケン粉だとわかると「私のパンだけ白いのは困る。国民の配給と同じにしてくれ」とおっしゃって、お聞き入れになられない。それで仕方なく配給の粉を使って、黒パンに変えたという。

朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。(新日本建設に関する勅書 昭和21年 より)

国民を思い、物を大切にし、贅沢を嫌った昭和天皇

『戦災の国民を考えれば、、(巡幸中)十日くらい風呂に入らなくてもかまわない。』

「(巡幸の様子は)アメリカ人も見ていますから、背広を新調されては…」と言う侍従の勧めに

『アメリカは勝ったんだし金持ちなんだから、いいものを着たって当たり前だが、日本は負けて、みんな着るものもなくて困っているじゃないか。洋服なんかつくる気になれない!』と、お答えになった。

公務で必要な洋服は体裁の為に新調されても、新しい服が傷まないよう、すぐに古い背広に着替えられた。

『これは,国民の肩身を狭くしないために作った服だから、そういうときのために、綺麗にとっておかなくては。』

崩御直前まで国民を思う昭和天皇

長雨が続いた昭和63年。末期がんで余命幾ばくもない陛下は侍従に

病床から

『長雨にたたられた今年の稲の実りは、どうなっているか?(国民が飢えることはないか)』と心配された。

最後まで気に掛けていらっしゃったのは「日本と国民」。

昭和天皇のお人柄は、今上天皇にも受け継がれ、東日本大震災でも、被災者を励まし元気付けておられる。

そして多くの被災者が感激し勇気付けられ涙を流している。

日本が昭和天皇と共に戦後のどん底から這い上がったように、天皇陛下がおられる限り、東北の震災の復興も遂げ、さらに強く生まれ変わると信じる。

天皇陛下万歳

未来永劫の日本と天皇陛下の弥栄を祈る。