金がないから何もできないという人間は、 金があってもなにも出来ない人間
わが国では、親が子を殺し、子が親を殺し、夫が妻を、妻が夫を殺す事件が多発している。

少しのもつれで、男女が殺人に至る事件も続発している。

教師が児童に性的ないたずらを、警官が婦女に暴行をする事件も珍しくない。

老人を相手にした振り込め詐欺が横行し、食品企業が食品販売物に不正表示をするなど、世相の乱れは例を挙げればきりがない。

しかし、半世紀ほど前まで日本人は、正直で勤勉で礼儀正しい国民であると世界から尊敬を受けていた。

そのことを初めて日本人に出会った西洋人の言葉によって振り返ってみる。

今から450年ほど前、初めて日本に来たヨーロッパ人宣教師たちは、日本人の徳の高さや優秀性に驚いた。

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会東インド管区長として、天文18年(1549)に日本に来た。

滞在3ヶ月後、ザビエルはインドのゴアにあるイエズス会にあてて、次のように報告した。

「この国民は自分たちがこれまで接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほどに優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥だと思っている者は一人もいない」

ザビエルは、さらに続けて書いている。

「日本人は侮辱や嘲笑を黙って忍んでいるようなことは決してない。平民は武士に敬意を払う。同様に武士は誇りを持って領主に仕えている。領主への恭順は内面から発している。領主に反逆して受ける処罰の屈辱よりも、忠誠の美徳に欠けることが自分の名誉の否定になると考える、その名誉心の誇りが強いからである」

またザビエルは、日本人が「理性的」であることを強調している。

ここでいう「理性的」という言葉は、単に感情的ではないということではなく、ものの道理を理解し、その道理に従うということを意味する。

日本人に「理性的」な特徴を認めたザビエルは、賛辞を惜しまなかった。

天正7年(1579)に来日した東インド管区巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、司祭オルガンティーノ・ソルドの日本人観に強い影響を受けた。

ヴァリニャーノは『東洋巡察記』に、オルガンティーノの言葉を書き記している。

「日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。我らの主デウスが人類に何を伝えたもうたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい。彼らは不必要なことを外面の表情に表すことはなく、甚だ忍耐強く、大度ある国民で、悔悛は真摯にして信心深く、儀礼に大いに気をつかい、交際においては丁重である」

オルガンティーノは、39年間も日本に住み、日本語を話し、米を食べ、最後は77歳で長崎に没した。

当時、彼ほど日本を深い理解した外国人はいない。

その彼は、次のように記している。

「信仰のことはともかくとして、我らは日本人より顕著に劣っている。私は日本語がわかるようになってからは、世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った」

16世紀に日本に来た西洋人の宣教師が見た日本人は、このように多くの美徳を持っていた。

その後、徳川幕府の下、約260年の間、天下太平の時代が続いた。

この平和の時代に、さらに誠実や正直、礼儀や勤勉を重んじる国民性が発展していった。

安政3年(1856)、下田に来航したアメリカの初代駐日公使ハリスは、『日本駐剳日記』に、開国後の日本の姿について、「日本の国民にその器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本はやがて偉大な、強力な国家となるであろう」と将来を予想している。

また幕末から明治の初期に日本を訪れた欧米人の多くが、日本人の善良で親切、互いに助け合う思いやりに満ちた姿を、驚きをもって書き残している。

その一人であるロシア人宣教師ニコライは、次のように記している。

「上は武士から下は町人に至るまで、礼儀正しく弱いものを助ける美しい心を持っている。忠義と孝行が尊ばれ、これほど精神の美しさを持つ民族を見たことがない」

私たち日本人の先祖・先人は、多くの西洋人に称えられるような美徳を持っていたのです。

そのことを思い起こし、日本人が本来持っていた日本精神を取り戻そう。

■日本の「魂」を伝えた小泉八雲

ラフカディオ・ハーンは、日本名・小泉八雲。

『怪談』等の名作で有名。

彼は日本文化を世界に知らしめた外国人として、第一に挙げられる。

彼が世界に伝えようとしたもの、それは日本の「魂」。

ハーンは、アメリカで新聞記者をしていた時、日本に魅力を感じるようになった。

運よく明治23年(1890)日本に派遣されて、憧れの国にやって来た。

そして、通信員の仕事をやめ、英語教師をすることにした。

場所は、島根県の松江中学校。

ハーンは英訳の『古事記』などを読んでいたから、神々の国・出雲へ行けることを非常に喜んだ。

8月末に松江に着き、翌月から学校に勤務し始めた。

当時、彼はアメリカの友人に宛てた手紙に、こう書いている。

「私は強く日本にひかれています。(略)この国で最も好きなのは、その国民、その素朴な人々です。天国みたいです。世界中を見ても、これ以上に魅力的で、素朴で、純粋な民族を見つけることはできないでしょう。日本について書かれた本の中に、こういう魅力を描いたものは1冊もありません。私は、日本人の神々、習慣、着物、鳥が鳴くような歌い方、彼らの住まい、迷信、弱さのすべてを愛しています。(略)私は自分の利益を考えず、できるなら、世界で最も愛すべきこの国民のためにここにいたい。ここに根を降ろしたいと思っています」

ハーンは1850年6月27日、ギリシャのレフカス島で生まれた。

父はアイルランド人、母はギリシャ人。

2歳から17歳まで、ハーンはアイルランドで育つ。

そこはヨーロッパの辺境にある島であり、キリスト教浸透以前のケルトの文化が残存していた。

こういう土地の影響か?

幼い時から妖精や精霊の存在を感じていたハーンは、一神教にはなじめなかった。

自然の中の神秘を排除していく西洋近代文明にも違和感を覚えていた。

そんなハーンが日本に魅力を感じるようになったのは、ゆえあることだった。

ハーンは、古い伝統と文化を守る城下町・松江が、この上なく気に入った。

そしてこの地で約1年半を過ごしている。

その間、松江で見た光景をハーンは次のように書き留めている。

「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。『こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない」

ハーンは、西洋では失われた自然への畏敬、八百万(やおよろず)の神々への信仰が、日本では生きていることに驚き、心から共感する。

そして、日本の民話や伝説、怪談などを聞き集め、それを作品にまとめて海外に紹介していく。

ハーン自身、昔ながらの日本の家に住み、着物を着て、日本食を食べ、日本の習慣に親しんだ。

日本女性と結婚するように勧められると、拒むことなく明治24年(1891)士族の娘・小泉節子と結婚した。

結婚式も和風で行った。

明治29年、45歳の時には日本へ帰化し、小泉八雲と名のる。

小泉は夫人の姓、八雲は出雲の枕詞「八雲立つ」に因んだもの。

日本人として生活するなかで、ハーンは、西洋が失ってしまった古きよきものを見出した。

ハーンは言う。

「西洋文明から日本の自然な、完全にノーマルな生活環境にとけ込むと、プレッシャーがだいぶん減ります。西洋文明の根本的特徴である個人主義が、ここにはないのです。それは私にとって日本社会の魅力の一つです。ここでは、個人は他人を犠牲にするところまで、その範囲を広げようとはしないのです」

「私の考えでは、日本人の生活を一層客観的に見ているその他の多くのオブザーバーもそうであろうが、日本はキリスト教に改宗しても、道徳やその他の面に関して何の得もない。むしろ損をするところが多い」

ハーンが亡くなったのは、日露戦争の最中、明治37年(1904)の9月。

当時、日本は大国ロシアを相手に驚くべき善戦をしていた。

ハーンは、絶筆となった『神国日本』の最終章にて、次のように書いている。

「日本のこの度の全く予期しなかった攻撃力発揮の背後に控えている精神力というものは、もちろん、過去のながい間の訓練のおかげであることは全く確かである。そしてすべてのあの天晴(あっぱ)れな勇気、生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気なのである。現在戦争に召集されている何千何万という若者の口から、名誉を荷ないながら故国に帰りたいなどという表現を一言も聞くことはできない。 異口同音にいっている希望は『招魂社』(靖国神社)に長く名をとどめたいということだけである。この『社』は『あの死者の霊を迎える社』で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられているところなのである。この古来の信仰が、この戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は、昔そうであったように、今なお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである。 国民のあらゆる行動の動
機であり、指導力なのである」

ハーンは「死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気」と書いている。

彼が感じた日露戦争における日本人の精神力、勇気の源泉は、天皇を日本の代表者であり日本に対する忠誠心・団結心であり、それと結びついた日本人の宗教的伝統だという。

そして、ハーンはこの宗教的伝統の核心は、祖先祭祀であり、神道であるとする。

わが国では、死者の魂を神として祭り、家の先祖を祀る家族的祭祀、氏神を祀る社会的祭祀、国の祖先を祀る国家的祭祀が、古代からハーンの見た近代まで貫く宗教的伝統となっている。

この祖先祭祀は、天皇を中心とする忠誠心・団結心と結びついている。

そこに、ハーンは、日露戦争において発揮された日本人の強さ、優秀さの根源を見出していた。

ハーンは、次のようにも述べている。

「日本の強さは、伝統的宗教の強さと同様に、物には現れていなくて、その民族の底に潜んでいる『民族の魂』にある」

ハーンは、日本人の「民族の底に潜んでいる『民族の魂』」を深く感じ取っていた。

それは古代から近代まで日本人の心底に保たれているものであり、明治日本の活力の源となっているものでもあった。

ハーンが追求し、作品の中に描こうとしたもの、それは日本の「魂」

日本の「魂」を伝えるものであるからこそ、彼の作品は、海外でも多くの人々を引き付けてやまない。

この文章の中にある引っ掛け文は「天皇を中心」として…

答えは、戦前や戦後の現在も天皇陛下は国民の代表としての存在であり、陛下が国事や開戦などを決める権力などなかったって事かな?
昭和天皇が古希をお迎えになったときに、土屋道雄氏が『わたしの内なる天皇』という論文を書かれたが、それを少し抜粋してご紹介しする。

土屋道雄氏は昭和10年に生まれて、小学校4年で終戦を迎えられた。

少年時代、学校には奉安殿(天皇皇后のお写真=御真影と教育勅語が納められた建物)があり、朝夕その前を通るときには脱帽して頭を下げたが、そこに何があるかなど興味はなかったとか、教育勅語をほぼ暗誦することができるけど、内容は理解できず、ただ早く終わればいいと思いながら、その名調子に聞きほれていたと言われる。

その頃の氏にとって、天皇は未知の人であり、現人神などと思ったこともなく、氏のこころには、天皇はまだ存在していなかったと言われる。

しかし、戦後「国体は護持されたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」というようなプラカードが現われたと聞いて不快に思ったそうである。

丁度、神を信じていない人間でも、神を辱める言葉に嫌悪の情を催すことがあるのと同じように、と。

戦後、社会の風潮がガラリと一変した。

国旗掲揚塔が倒され、奉安殿がこわされた。

そして、新しい教育制度が、採り入れられ、いわゆる平和と民主主義を旗印とした教育がはじめられた。

そうした中で、それまでの歴史教育は否定され、禁止され、全く顧みられなかった。

やがて授業は復活するにはしたが、希望しなければ学ばないですむような仕組みになっていた。

それで、私は高等学校では日本史を学ばなかった。そのことを「歴史・教科書・検定」に「日本人でありながら日本史を学ばずに済んでしまったのだから、考えれば考えるほど妙な話である」と書いたところ「赤旗」で大江志乃夫氏に「日本人でありながら、日本史を学ばずに済ませてしまい、そうした自分の態度を他人事のように『妙な話である』と考える御本人こそよっぽど『妙な話である』」と批判された。

大江氏は東京教育大の先生だそうだが、文章の読み方を知らないようである。

なるほど日本史を選択しなかったのは、若かったとはいえ、考えの至らなかった私の責任であるが、私は学ばずに済ませた自分の態度について「妙な話」と他人事のように言ったのではなく、当然必修であるべきなのに、学ばずにすむようになっている制度を指して言ったのである。

そういう制度であった上に、当時の教科書の内容は左翼思想に偏っており、天皇の歴史的な役割を正統に評価しているものは少なかったから、教育を通じて、天皇についての正しい認識を持つことは、ほとんど不可能なことであった。

中略

以上のような状況もあずかって、私にとっては戦後も依然として、天皇は“未知の人”であり、私の意識の外にあった。

ところが、いつの頃からか、日本の古典や歴史書を好んで読むようになり、それと時を合わせるように、徐々に天皇が、私の意識に上るようになってきたように思う。

だから、私は日本の歴史とか、伝統とか、文化とかを離れて天皇について考えることはできない。

最早私は、天皇について無関心であることはできない。好むと好まざるとに拘らず、もっとつきつめて考えてみなければいけないと思っている。

私が日本人であることをやめない限り、日本人として生き続けようとする限り、私についてまわり、私の心のうちから消えることはないに違いない。

中略

戦後の歴史学界をリードし、今日、左翼学者の牙城のようにもくされている「歴史学研究会」(歴研)は、昭和7年に結成されているが、20年8月、日本が降伏すると、にわかに活発な動きを見せ、主として天皇制(一応ここでは天皇制と書いておくが、私はこのような不明確な言葉は使いたくないし、一般に左翼の歴史家が意味する内容には承服しかねる)なるものに批判をむけた。

中でも人民の歴史を説く羽仁五郎氏が毎日新聞に連載した「天皇制の解明」は相当の反響を呼んだ。

また「歴研」編として出版された『歴史家は天皇制をどう見るか』は、天皇制なるものの反人民的な性格を批判、告発するという形で出され、これまたかなりの反響を呼んだ。

一口に言えば、天皇制なるものが諸悪の根源だということであるが、こうした天皇制批判の嵐の中で、歴史家はもとより一般の国民も、戦時中言論抑圧を受けた津田左右吉がその急先鋒であろうと考えていた。

しかし、津田が21年4月の『世界』に発表した「建国の事情と万世一系の思想」は、天皇制打倒論者の期待を全く裏切るものであった。

津田は、天皇の存在は民主政治と相容れないという安直な考えを否定し、「このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯い(うべない)がたきところがあり、特に歴史上の事実に対する誤解または曲解が目だって見える」と批判し「過去において、美しい存在として時代時代の全ての教養あるものの心に宿ってきた」「国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は『われらの天皇』であられる」「国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである」「皇室を愛することができないような国民は、少なくともその点に於いて、民主政治を実現する能力に欠けたところのあることを示すものである」と説いている。

実に美しい文章である。

私はこの一文に接したとき、さすがだと思った。

津田は歴研の会長に推されたが、勿論それを固辞し、その後はむしろ戦後のはやりとなった唯物史観を、独断的であり非合理であると痛烈に批判するようになった。

こうした津田の時代の風潮に便乗しない学者的態度は、われもわれもと唯物史観にはしった、多くの軽佻浮薄の徒と比べ称讃に価する。

ともあれ、津田を抱きこむことができなかったことによって、津田の研究に依拠していた「歴研」を中心とする天皇批判は致命的な打撃を受けることになったが、それは津田の学問や思想の本質を見誤っていた当然の報いである。

なお、戦前天皇機関説を唱えて圧迫を受けながら、戦後の風潮に便乗することなく、天皇擁護を強く主張した美濃部達吉にも、津田と同じことが言えるだろう。

一方、20年10月10日、「日本共産党 出獄同志、徳田球一、志賀義雄外一同」として発表された「人民に訴う」の第三項の冒頭には、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある」とあり、天皇制打倒に対する共産党の意気込みは非常なものであった。

同年11月7日発行の「赤旗」で、志賀氏は、天皇こそ最大の戦争犯罪人であると述べており、また同じ号に「もし社会党の諸君が天皇制打倒に賛成しえないというならば、自ら民主主義革命に参加することを拒絶し、反動的勢力としての天皇の側につくことを意味するという批判を甘受しなければならない」と、当時天皇制批判を渋っていた社会党を批判した記述が見られる。

結局、共産党は孤立し、争点が天皇制に集中した翌年の4月10日の選挙において、予想外に不人気で、五つの議席しか得られなかった。

こうして共産党は天皇擁護という厚い国民感情にぶつかって、天皇制打倒をスローガンから外さざるを得なくなるのであるが共産党の中にも、こういう事態を予想して、漸進的な意見を持っていたものもないではない。

例えば、戦争中延安で日本人俘虜の反戦運動を指導していた野坂参三は、「南方各地で連合軍が日本人俘虜に対して質問した結果によると、日本の勝利に確信を有するものは全体の半分、最高指導者に対する信頼者はわずかに三割一分、ところが天皇崇拝はほとんど全部の兵士に共通した回答であった。八路軍に捕われて間もない兵士の多くは、解放連盟の綱領に賛成するが、もし天皇を打倒するならば反対である、という」こういう事実から、終戦の年の4月に、天皇打倒のスローガンを掲げると、大衆から孤立する危険があると指摘している。

土屋氏の論文はまだまだ続くが、あまりに長いので戦後まもない頃の世間の様子、左翼学者などが急に勢いづいてきた頃の様子がわかるこのあたりで、先ずは第一回の記事を終えることにする。