昭和天皇が古希をお迎えになったときに、土屋道雄氏が『わたしの内なる天皇』という論文を書かれたが、それを少し抜粋してご紹介しする。

土屋道雄氏は昭和10年に生まれて、小学校4年で終戦を迎えられた。

少年時代、学校には奉安殿(天皇皇后のお写真=御真影と教育勅語が納められた建物)があり、朝夕その前を通るときには脱帽して頭を下げたが、そこに何があるかなど興味はなかったとか、教育勅語をほぼ暗誦することができるけど、内容は理解できず、ただ早く終わればいいと思いながら、その名調子に聞きほれていたと言われる。

その頃の氏にとって、天皇は未知の人であり、現人神などと思ったこともなく、氏のこころには、天皇はまだ存在していなかったと言われる。

しかし、戦後「国体は護持されたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」というようなプラカードが現われたと聞いて不快に思ったそうである。

丁度、神を信じていない人間でも、神を辱める言葉に嫌悪の情を催すことがあるのと同じように、と。

戦後、社会の風潮がガラリと一変した。

国旗掲揚塔が倒され、奉安殿がこわされた。

そして、新しい教育制度が、採り入れられ、いわゆる平和と民主主義を旗印とした教育がはじめられた。

そうした中で、それまでの歴史教育は否定され、禁止され、全く顧みられなかった。

やがて授業は復活するにはしたが、希望しなければ学ばないですむような仕組みになっていた。

それで、私は高等学校では日本史を学ばなかった。そのことを「歴史・教科書・検定」に「日本人でありながら日本史を学ばずに済んでしまったのだから、考えれば考えるほど妙な話である」と書いたところ「赤旗」で大江志乃夫氏に「日本人でありながら、日本史を学ばずに済ませてしまい、そうした自分の態度を他人事のように『妙な話である』と考える御本人こそよっぽど『妙な話である』」と批判された。

大江氏は東京教育大の先生だそうだが、文章の読み方を知らないようである。

なるほど日本史を選択しなかったのは、若かったとはいえ、考えの至らなかった私の責任であるが、私は学ばずに済ませた自分の態度について「妙な話」と他人事のように言ったのではなく、当然必修であるべきなのに、学ばずにすむようになっている制度を指して言ったのである。

そういう制度であった上に、当時の教科書の内容は左翼思想に偏っており、天皇の歴史的な役割を正統に評価しているものは少なかったから、教育を通じて、天皇についての正しい認識を持つことは、ほとんど不可能なことであった。

中略

以上のような状況もあずかって、私にとっては戦後も依然として、天皇は“未知の人”であり、私の意識の外にあった。

ところが、いつの頃からか、日本の古典や歴史書を好んで読むようになり、それと時を合わせるように、徐々に天皇が、私の意識に上るようになってきたように思う。

だから、私は日本の歴史とか、伝統とか、文化とかを離れて天皇について考えることはできない。

最早私は、天皇について無関心であることはできない。好むと好まざるとに拘らず、もっとつきつめて考えてみなければいけないと思っている。

私が日本人であることをやめない限り、日本人として生き続けようとする限り、私についてまわり、私の心のうちから消えることはないに違いない。

中略

戦後の歴史学界をリードし、今日、左翼学者の牙城のようにもくされている「歴史学研究会」(歴研)は、昭和7年に結成されているが、20年8月、日本が降伏すると、にわかに活発な動きを見せ、主として天皇制(一応ここでは天皇制と書いておくが、私はこのような不明確な言葉は使いたくないし、一般に左翼の歴史家が意味する内容には承服しかねる)なるものに批判をむけた。

中でも人民の歴史を説く羽仁五郎氏が毎日新聞に連載した「天皇制の解明」は相当の反響を呼んだ。

また「歴研」編として出版された『歴史家は天皇制をどう見るか』は、天皇制なるものの反人民的な性格を批判、告発するという形で出され、これまたかなりの反響を呼んだ。

一口に言えば、天皇制なるものが諸悪の根源だということであるが、こうした天皇制批判の嵐の中で、歴史家はもとより一般の国民も、戦時中言論抑圧を受けた津田左右吉がその急先鋒であろうと考えていた。

しかし、津田が21年4月の『世界』に発表した「建国の事情と万世一系の思想」は、天皇制打倒論者の期待を全く裏切るものであった。

津田は、天皇の存在は民主政治と相容れないという安直な考えを否定し、「このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯い(うべない)がたきところがあり、特に歴史上の事実に対する誤解または曲解が目だって見える」と批判し「過去において、美しい存在として時代時代の全ての教養あるものの心に宿ってきた」「国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は『われらの天皇』であられる」「国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである」「皇室を愛することができないような国民は、少なくともその点に於いて、民主政治を実現する能力に欠けたところのあることを示すものである」と説いている。

実に美しい文章である。

私はこの一文に接したとき、さすがだと思った。

津田は歴研の会長に推されたが、勿論それを固辞し、その後はむしろ戦後のはやりとなった唯物史観を、独断的であり非合理であると痛烈に批判するようになった。

こうした津田の時代の風潮に便乗しない学者的態度は、われもわれもと唯物史観にはしった、多くの軽佻浮薄の徒と比べ称讃に価する。

ともあれ、津田を抱きこむことができなかったことによって、津田の研究に依拠していた「歴研」を中心とする天皇批判は致命的な打撃を受けることになったが、それは津田の学問や思想の本質を見誤っていた当然の報いである。

なお、戦前天皇機関説を唱えて圧迫を受けながら、戦後の風潮に便乗することなく、天皇擁護を強く主張した美濃部達吉にも、津田と同じことが言えるだろう。

一方、20年10月10日、「日本共産党 出獄同志、徳田球一、志賀義雄外一同」として発表された「人民に訴う」の第三項の冒頭には、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある」とあり、天皇制打倒に対する共産党の意気込みは非常なものであった。

同年11月7日発行の「赤旗」で、志賀氏は、天皇こそ最大の戦争犯罪人であると述べており、また同じ号に「もし社会党の諸君が天皇制打倒に賛成しえないというならば、自ら民主主義革命に参加することを拒絶し、反動的勢力としての天皇の側につくことを意味するという批判を甘受しなければならない」と、当時天皇制批判を渋っていた社会党を批判した記述が見られる。

結局、共産党は孤立し、争点が天皇制に集中した翌年の4月10日の選挙において、予想外に不人気で、五つの議席しか得られなかった。

こうして共産党は天皇擁護という厚い国民感情にぶつかって、天皇制打倒をスローガンから外さざるを得なくなるのであるが共産党の中にも、こういう事態を予想して、漸進的な意見を持っていたものもないではない。

例えば、戦争中延安で日本人俘虜の反戦運動を指導していた野坂参三は、「南方各地で連合軍が日本人俘虜に対して質問した結果によると、日本の勝利に確信を有するものは全体の半分、最高指導者に対する信頼者はわずかに三割一分、ところが天皇崇拝はほとんど全部の兵士に共通した回答であった。八路軍に捕われて間もない兵士の多くは、解放連盟の綱領に賛成するが、もし天皇を打倒するならば反対である、という」こういう事実から、終戦の年の4月に、天皇打倒のスローガンを掲げると、大衆から孤立する危険があると指摘している。

土屋氏の論文はまだまだ続くが、あまりに長いので戦後まもない頃の世間の様子、左翼学者などが急に勢いづいてきた頃の様子がわかるこのあたりで、先ずは第一回の記事を終えることにする。