
昭和天皇陛下 御尊影
わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
※昭和五十八年年頭の御製。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされた。
俗に言う「災い」としては「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられるが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも平和が続き、3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していた。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられない。
それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察する。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) 。
憲法は国の魂。
近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがない。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としているような気がする。
清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞

昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。
享年80歳。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠された。
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われている。
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙にでた。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、大和民族たる日本人は決して忘れてはならない。
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取した。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じている。
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであっただろう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていた。
わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易。
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばならない。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばならない。
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
尊い御心を胸に刻みたい。

