「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」

■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束

安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。

記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。

硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。

この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。

米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。

米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。

そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。

戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。

国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。

そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。

しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。

経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。

そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。

その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。

■2.ハペル氏の驚き

オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。

現地人のポーターが説明してくれた。

「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました」

この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。

その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも不思議と生き抜いた。

そして戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきたというのである。

この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。

その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。

『ココダの約束』である。

こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。

■3.小隊56名中、戦死55名

西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。

激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。

劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。

日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の三分の二の距離にエフォギ村はあった。

日本軍の志気は高く、皆がポートモレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。

エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。

敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃たれ、助けを求めて、うめいていた。

その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。

弾丸が3発、彼の肩を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒した。

その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。

「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。

その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原がとっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。

しかし逆に腰を打ち抜かれ、一瞬にして死んだ。

こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。

■4.「この約束は必ず守る」

日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。

9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。

その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。

「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。

饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。

招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。

最後には自力で歩けない兵士は置いていくという決定が下された。

西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと

「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。

そして、こう約束した。

「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」

西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。

残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。

■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ

西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャツにショベルといういでたちだった。

ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒されながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。

西村の約束を待つ英霊たちが彼を護っていたのかもしれない。

敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。

いつか戦友の骨を拾いに行くという条件で結婚し、4人の子供も得た。

しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。

西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。

そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。

昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。

妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。

それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけが父を理解して家に残った。

西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。

■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」

西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。

かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。

そういう作業を20年以上も続けた。

多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。

金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。

ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした場所だった。

西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。

それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。

68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。

胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。

男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。

そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。

やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。

■7.「忠実なる英霊のために」

このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建てている。またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の決意が窺える。

一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。

戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。

西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。

自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。

西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。

■8.果たされた約束、果たされてない約束

2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。

厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。

1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸子との暮らしを始めた。

相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。

西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。

安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。

国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。

我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。

■参考■

1. チャールズ・ハペル『ココダの約束 遺骨収容に生涯をかけた男』 武田ランダムハウスジャパン 、H21
朝日の論調、3つの手口

朝日新聞は3つのパターン化された手口で、その独特の論調を訴えかける。

■1.高校生のハイジャック事件■

昭和50(1975)年7月28日、羽田から千歳に向かっていた全日空機が、宮城県松島上空で若い男に乗っ取られ「ハワイに行け」と要求されるハイジャック事件が起きた。

男は操縦席に入り込み、ポケットに手を入れて何か武器を持っているかのように装って、脅したのである。

機は羽田に引き返し、整備員を装った警官が機内に入って、犯人を取り押さえた。

ズボンのポケットに入っていたのは菓子パンだけで、犯人は母親と二人暮らしの高校生だった。

全日空は再発防止の一環として犯人に約700万円の賠償を請求することを決めた。

請求額は事件でキャンセルされた便の補償など直接出費に限り、それも「取り立てる気はない。ただ犯罪がいかに間尺に合わないか、どんな痛いしっぺ返しがくるか、それを世間に知らせたい、そういう趣旨です」と全日空は記者会見で説明した。

当時、産経新聞記者だった高山正之氏は、「あれくらいの騒ぎでも、結構多くの人が迷惑を蒙り大きな経済負担があるものだ」と驚き、翌日の社会面で30行ほどの記事を書いた。

■2.『朝日』は「おかしい」「異常だ」■

ところが『朝日新聞』は違った。

社会面のトップで「ハイジャック見せしめ694万円」と題して、見せしめのための損害賠償は議論を呼びそうとか、二人の識者を使って「防止効果には疑問」「親苦しめるのは酷」などと論じた。

高山記者はこう思った。

読めば分かるようにこれは黒を白といっている。

真っ当ではない。

ただ腹立たしいことにどこがいんちきかというと意図がヘンなだけで個々の事実には嘘はない。

確かにかたや可哀想な母子家庭で、かたや大航空会社で営利追求はする、だからといってスターリンの粛正文句ではあるまいし、全日空が阿漕に母子家庭に差し押さえかけたわけじゃあない。

しかし文意はそう受け取れ、『朝日』はそういう全日空を厳しくたしなめる。

実に鼻持ちならない。

『朝日新聞』は「まさか」ではなく、間違いなく「おかしい」「異常だ」という確信がこのとき生まれた。

それからまるまる30年。

残念ながら「確信」は裏切られることなく、むしろより異常さが増幅しているように思う。

■3.3つのパターン■

その後、高山氏は産経新聞のテヘラン支局長、ロサンゼルス支局長、編集委員などを歴任し、新聞報道の裏側を良く知る立場から、辛辣なマスコミ批判を展開する。

特に朝日新聞については、その主張にいくつかの決まり切ったパターンがあることを見つけた。

それは、以下の3つである。

・社会的弱者をいたわれ

・よその国の機嫌を損ねてはならない

・日本人を叱責せよ

朝日新聞がいつもこの3つのパターンで記事を書いていると想定すると、弊誌が過去に紹介した様々な(弊誌から見れば「異様な」)主張も、なるほど、と思えてくるのである。

たとえば、冒頭のハイジャック事件では、母子家庭の高校生は、社会的弱者である。

「社会的弱者をいたわれ」というパターンから、社会的強者である全日空のような大企業が、社会的弱者である母子家庭に約700万円もの高額賠償を請求するのは「ケシカラン」という結論となる。

弱者が法を破って、強者に「多少」の損害を与えたぐらいは、「大目に見よ」ということになる。

これでは法律も何もあったものではない。

実際に全日空は「取り立てる気はない」と言っているのだから、すでに大目に見ているわけで、国際常識から見れば「弱者」に優しい処置をとっている。

それを無視して、さらに「親苦しめるのは酷」などと主張する。

■4.「朝鮮人従軍慰安婦」の「思い出すと今も涙」■

慰安婦問題は朝日が火をつけたのだが、その発端となった記事の一つも、やはり「弱者をいたわれ」パターンだった。

平成3(1985)年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が」名乗り出たと報じた。

「思い出すと今も涙」「戦後半世紀重い口開く」などと、さすがに天下の英才の集まる朝日、文章もなかなかのもの。

しかし、実はこの女性は日本軍に強制徴用されたのではなく、14歳の時に母親によって朝鮮の置屋に売られた事を、自らある韓国紙に語っている。

「弱者をいたわれ」というパターンに忠実に従うあまり、肝心の事実をねじ曲げての報道では、新聞の基本から外れてしまっている。

14歳で親に売られた少女の身の上は気の毒だが、それは政府や軍の責任ではない、という常識が、「弱者をいたわれ」というパターンで覆われてしまっている。

■5.第2のパターン「よその国の機嫌を損ねてはならない」■

第2のパターンは「よその国の機嫌を損ねてはならない」だ。

その例として、高山氏は船橋洋一氏のコラム「日本@世界」の「六ヶ所村再処理は凍結を」(平成16年12月2日付け)を挙げる。

船橋氏は入社後、ハーバード大学に学び、北京、ワシントン特派員を歴任するという朝日を代表する国際派エリート記者である。

青森県の六ヶ所村の核再処理施設は、核爆弾にもなるプルトニウムを抽出するが、イランや北朝鮮の核疑惑が騒がれている時期に、日本が再処理を始めたら「世界の目は険しくなる」と危惧する。

北朝鮮がそれを口実に核武装するかもしれない。

日本への警戒感を生み出していることに、「日本はもっと敏感にならなければならない」と訴え、だから「日本は再処理を凍結するのがよい」と結ぶ。

使われたのは「よその国の機嫌を損ねてはならない」パターン。自分たちは核実験をやり、テポドンを飛ばすような悪辣な国でも機嫌を損ねてはならない。そんな国々が少しでも危惧を持つようならエネルギー不足で日本が沈没しても我慢しろということ。

朝日は、このコラムを受けてエルバラダイIAEA(国際原子力機関)事務局長と会見し再処理問題について聞いているが(2005年1月7日付け)、日本はIAEAの査察を何度も受けており、局長が日本の核再処理について「険しい目」で見ている様子はまったく窺われない。

朝日の代表的国際派記者が「世界の目は険しくなる」と言っても、それは国際常識から相当ずれている場合がある、という事。

■6.北朝鮮への異常なご機嫌取り■

「よその国の機嫌を損ねてはならない」パターンの極致が、北朝鮮へのご機嫌取り。

弊誌273号では、核、拉致、ミサイルに関する読売と朝日の社説を読み比べてみたが、朝日の論調はひたすら北朝鮮をなだめすかすのみ。

平成6(1994)年に、北朝鮮が核開発施設を稼働させ、「米国からの援助があれば止める」と脅した際に、読売は「段階的制裁を」と主張したが、朝日はこう述べた。

北朝鮮が最終的に米国との交渉による解決を切望している以上、米国は北朝鮮との対話のパイプを閉ざすべきではない。

北朝鮮の脅しは米国と交渉したいというシグナルなのだから、米国はそれを聞いてやるべきだ、という。

ナイフを振り回して、金をせびろうとする不良少年に対して、まずは話を聞いてやれ、というご機嫌取り。

平成10(1998)年、北朝鮮側が拉致疑惑を全面否定した際には、読売は「誠意ある取り組みがなければ、正常化交渉も、食糧の追加支援も困難だという明確なメッセージを」送り続けるべき、と主張した。

それに対して、朝日の方は、被害者家族の北支援に反対するのは、「肉親の情としては当然かもしれない」としつつ、しかし、朝鮮半島の緊張をやわらげるには、構造的な食糧、経済危機をかかえる北朝鮮に必要な援助を続けつつ、 軍事的な暴発を防ぎ、開放を促していくしか道はない。

それがもうひとつの現実である。

ここでもやはり北朝鮮のご機嫌取り。

この年の9月には、北朝鮮は日本列島越しにミサイル実験を行った。

ここでも朝日は「とても容認できない」としつつも、 最後は「約束通り10億ドルと食糧支援を」と結ぶ。

他国民を拉致したり、勝手に核兵器開発をしたり、他国の上空に勝手にミサイルを飛ばしたり、という無法は許されない、というのが国際常識だが、これらは朝日の社説では「よその国の機嫌を損ねてはならない」パターンに覆い隠されてしまっている。

■7.第3のパターン「日本人を叱責せよ」■

第3のパターンは、「日本人を叱責せよ」である。

平成16(2004)年4月のイラクでの人質事件では、社説「NGOの芽を摘むな」で「紛争地や貧困に苦しむ地域で人道支援をしているNGOや個人に対して、日本社会の理解が不足している」と社会全体に対してお説教を垂れた。

また、平成13(2001)年11月の海上自衛隊の護衛艦隊がアフガニスタン空爆を行っている米艦隊支援のためにインド洋に出港すると、「そんなに旗を立てたいか」と題した社説で嫌みを込めた小言を言う。

極めつけは平成元(1989)年4月の珊瑚落書き事件で、「80年代日本人の記念碑になるに違いない。百年単位で育ってきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の・・・」と書いた。

これは、後に朝日新聞の記者自身が珊瑚礁に傷つけて書いた捏造記事だと判明したのだが、そこまでして「日本人を叱責せよ」パターンを使うとは、よほどこの思考方法が身に染みついている。

■8.自虐史観・歴史教科書問題で「日本人を叱責」■

「日本人を叱責せよ」パターンの走りと言えば、昭和46(1971)年に朝日に連載された本多勝一記者の「中国の旅」。

かつて東京日日新聞(毎日新聞の前身)が戦争中に「南京を目指す日本軍の二人の少尉が100人斬り競争をした」という戦意高揚のでっち上げ記事を書いた。

本田記者はそれを「殺人ゲーム」と再粉飾して、日本軍の残虐ぶりを糾弾し、反省を求めたのである。

このあたりから自虐史観が広まっていった。

自虐史観から教科書問題に発展させたのも、朝日である。

昭和57(1982)年6月26日、朝日新聞は一面トップで、「教科書さらに『戦前』復権へ」と題した記事を掲載し、歴史教科書の「日本軍が華北を侵略すると」という一節が、検定で「進出すると」に書き換えられたと報じた。

これを受けて、その一ヶ月後、中国から「歴史教科書改竄」に関する正式な抗議がなされた。

しかし、これも虚報であることが判明したのだが、朝日はなかなかそれを認めず、「侵略→侵入」と修正した例はあった、などと苦し紛れの弁解を続ける。

そうこうするうちに、宮沢官房長官が、「教科書記述については、中国、韓国など近隣諸国の批判に耳を傾け」る、という談話を発表する。

これに対して、朝日は自らの虚報は棚上げして、「なお今回の政府見解の表現には、いまひとつ率直さが足りない。残念なことである」(8月27日社説)と逆に政府を叱責した。

■9.日本人の国民性につけこむ手口■

このように朝日の異常な報道・論説を辿っていくと、確かに「社会的弱者をいたわれ」「よその国の機嫌を損ねてはならな い」「日本人を叱責せよ」のいずれかのパターンで書かれている。

実はこの3つは、日本人の国民性を巧みに突いた手口。

「社会的弱者をいたわれ」というのは、日本人が持つ国民相互の強い同胞感に訴える。

「よその国の機嫌を損ねてはならない」とは、他者への気配り・思いやりを尊ぶ日本社会の特質に合致する。

さらに「日本人を叱責せよ」は、自己反省と向上意欲の強い国民性から、受け入れられやすい。

おそらく朝日は長年の経験から、この3つのパターンが日本人の国民性に強い訴求力を持つことを発見したのだろう。

これらの国民性は日本人の美質と言えるが、いずれも情緒的なものであり、朝日の論調はそこを突くことによって、異様な主張をさも尤もらしく説くのである。

「社会的弱者をいたわれ」と言っても、弱者の犯罪までが見過ごされていい訳はない。

「よその国の機嫌を損ねてはならない」と言っても、日本の国益を損ねてまで、相手の国の不法を黙認しなければならない義理はない。

そして「日本人を叱責せよ」と言っても、やってもいないことまで謝る必要はない。

こう考えると、3つのパターンを駆使する朝日の姿勢は、社会の理非を糺すという言論機関というよりも、読者の情緒・感 情に訴えて、自らの主張を広めようとする扇動機関にふさわしいと言えよう。

国際派日本人としては、日本の美しい国民性は維持しつつも、情緒的にそこにつけこまれる事のないよう、健全な理性と常識を鍛えておかねばならない。

■参考■

1. 高山正之『歪曲報道 巨大メディアの「騙しの手口」』 PHP研究所、H16
dizzさんのブログ-94573.jpg

ふ~む…

知っていて当然な事を話しているだけで、アクセス数で稼ぐ気にもならないし、話を変えますが知らなかったの?

キリスト教の信仰時など凄かった…

当たり前だが

「突然、寄付金くださいと現れて祈らなければ地獄に落ちるって都合が良すぎるねん!」

「じゃあ祖父母は地獄に落ちたんか!」

「ナメんなよ!」

人が他人を信頼する時に自分自身が無くなる様な気と色々や…

神様も人間やったらしい