"民主 生活者や働く人重視の経済対策"

民主党は、安倍政権の経済政策、いわゆる「アベノミクス」は、バブル景気を引き起こし所得格差を広げるおそれがあるとして、 労働者の最低賃金の引き上げや非正規労働者の待遇改善などを柱とした独自の経済政策をまとめました。

それによりますと、安倍政権の経済政策、いわゆる「アベノミクス」について

▽今の株価の上昇は景気回復への期待によるもので実体を伴っておらず、バブル景気を引き起こす危険があるほか

▽円安の進行で、ガソリンや小麦など生活必需品の値上がりが進んでおり、今後、国民の間で所得格差が広がるおそれがある、と批判しています。

そのうえで

▽労働者の生活水準を高めるため、最低賃金の引き上げや非正規労働者の待遇改善に取り組むほか

▽政府内で議論されている、再就職の支援金を支払うこととセットで労働者を解雇できるようにする法整備を阻止する、などとしています。

民主党は、生活者や働く人を重視する姿勢を打ち出したいとしており、新たな経済政策を夏の参議院選挙の政権公約に反映させ、 自民党との違いを鮮明にしていく方針です。

NHK 4月21日

もうこいつらの戯言なんて誰も聞かない…

なら、なぜそれを政権時代にやらなかった?

政権取った時に出来なかったものが今出来る訳ない…

本当に馬鹿共!

「じゃぁ、お前ら3年間なにやってたんだ?」で終わる。

だから最低賃金とか掲げて戦ったはずなのになんでやらずに今ごろ言う?

頭おかしいでコイツ等!

野党が与党を批判するのは自然なのだが、「お前がいうな」は自民が下野した時にもあったが、民主党の場合、あまりにも与党時代の振る舞いが愚かで稚拙すぎたので、自然ではなく自虐お笑いにしかならない…

ガソリンは産油国(中東等)やその運搬にかかる海路の情勢不安によっても値上がりする。

小麦は世界的な食糧不足やバイオ燃料の原料とされること等による需給関係により値上がりしている。

円安がメインの原因ではない。

民主党の解党支援ならする
昭和天皇陛下全国御巡幸

私は戦後生まれだから昭和天皇陛下の終戦直後の全国御巡幸を知らない。

戦後の学校教育において、この御巡幸については一切教えていないが、この御巡幸こそが当時の日本国国民と昭和天皇陛下との強い絆がみられる。

敗戦直後の昭和20年10月昭和天皇陛下は宮内府次長に

「この戦争により先祖からの領土を失ひ国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた」

「この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた」

「しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ」

「このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ」

「ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい」

「宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい」

と指示された。

当時は占領下にあったから、占領軍総司令部に打診した。

占領軍総司令部は

「親、兄弟、夫を殺されたのだから石の一つでも投げられりゃいいんだ!」

と天皇陛下を貶める目的で許可したそうだ。

しかし、占領軍総司令部高官たちの思惑とは全く信じられない結果となった。

昭和天皇陛下は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られ、行程は3万3千キロ、総日数165日。

各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。

昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・ 川崎工場。

この時昭和天皇陛下は工員たちに対し。

「生活状態はどうか?」

「食べ物は大丈夫か?」

「家はあるのか?」

と聞かれた。

感極まって泣いているものも多かったそうだ。

二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。

大空襲で一面、焼け野原。

新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ自然に

「天皇陛下、万歳」

の声が巻き起こり、天皇陛下が帽子をとってお応えになると群衆は警備の米兵の制止をふりはらって車道までなだれこむ現象がおき以降の御巡幸先でも同様の光景がみられた。

昭和21年には関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には大阪、兵庫、和歌山。

そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望されたが、側近が驚いて

「涼しくなってからでは?」

と延期を願ったが

「東北の運命(食料の増産)は真夏にかかっている」

「東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」

と許さず、当時は敗戦直後で陛下の宿泊される場所もままならず、列車や学校等で泊られることもあったそうだが陛下は。

「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」

と言われて行幸を続けられた。

2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。

最初に浅間山の雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。

大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村。

しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、半数の323名が生き残って村に帰ってきた。

そして標高1095mの荒れ地を切り開いて入植。

陛下をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。

昭和天皇のお顔も涙に濡れた。

12月5日、広島。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。

原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして目頭を押さえられた。

周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く光景がみられた。

平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられ陛下は

「このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ」

とのべられた。

原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇陛下を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであったは目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケント氏。

兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。

占領軍総司令部民政局はこれを口実にした理由は民政局は天皇廃止を目論んでいた。

陛下を貶める目的で許可した御巡幸であったはずが、かえって国民との結びつきを強くしてしまったと。

御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、陛下から直接総司令官マッカーサーにお話しされた結果、翌々年に再開が許可。

昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。

因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮に立寄られ、位牌をふたつ胸に抱えた女の子を励まされた。

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。

陛下は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。

「どなたが戦死をされたのか?」

「息子でございます。たった一人の息子でございました…」

声を詰まらせながら返事をする老婆に

「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです…」

「天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております」

「息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」

と答え、老婆は泣き伏してしまった。

じっと耳を傾けていた陛下は流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていたそうだ。

引き揚げ者の一行の前で陛下は、深々と頭を下げられた。

「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」

とお言葉をかけられた。

一人の引き揚げ者がにじり寄ってきて、

「天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」

と述べたそうだ。

九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになられた。

御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に陛下は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、奉迎者の総数は数千万人に達した。

日本国民は帝国の敗戦によって国が崩壊してそれまで現人神であった陛下と接する機会を得、人々と共に悲しみ、涙を流す陛下の姿。

一人ひとりが孤独に抱 えていた苦しみ、悲しみに、陛下が涙をされた時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生え戦後のめざましい復興の原動力はここから生まれた。

陛下が晩年御病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れ、陛下の回復を祈った。

陛下は御病床で

「もうだめか?」

と医師に尋ねられた。

自信の御病気のことではなく、最後の御巡幸先である沖縄の事。

陛下の御心は今上陛下により平成5年に果されたが…

当時イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれ欧米人の常識では理解できないことが起こった昭和天皇陛下全国御巡幸。

当時の英国新聞紙も

「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」

日本国が天皇中心となり再びたちあがり連合国に刃向かうことを恐れ天皇廃止を目論んだが、国民と天皇陛下との強い絆と結びつきをまのあたりにし断念した。

今上陛下も災害等で被災された方々を励まされ、励まされた方々は、そのお言葉を生きる糧としている。

天皇陛下万歳!

皇后陛下万歳!

皇室万歳!

これからも日本国の心ある国民は永久に叫ぶかな?
平和主義者にとって日本は、あくまで戦争犯罪国家で、自衛隊は侵略の為の軍隊であり、そうでなくてはならない。

アジアの人々に苦しみを与え、日本国民にも被害を与えた侵略国家でなくては傍聴や捏造をしても目的が手段を正当化するなら、史実や事実、論理性など問題ではない、彼等の目的はネガティブイメージの刷り込みを繰り返す事によって、日本人の思考を停止させること…

共産主義者の思考は「自己肯定」と「他者否定」で無意味に他者との相互理解や他者に対する寛容や意思すらさえない後進的としか言えない。

教職に就く人間には政治的な中立性が求められる。子供を教え導く立場の者が特定の党派に肩入れするのは倫理上好ましくない。そもそも公立学校の教員が政治に関わることは、教育公務員特例法などで禁じられているのである。

ところが、総選挙に当選した民主党の小林千代美衆院議員の陣営に1600万円の「裏金」を提供したのは、まさに教員の集まりである北海道教職員組合(北教組)だというのだから、呆れるほかない。

結局、この1600万円を巡っては3月1日、4人が政治資金規正法違反で逮捕されたが、うち3人は小関顕太郎書記長、長田秀樹委員長代理ら北教組幹部だった。まさに、子供を教え導く教師が「裏金」を選挙資金として提供した容疑で逮捕されたのである。北教組は人を提供し、公選法に抵触しながら小林千代美の選挙を支えたわけで、そのうえ裏金まで渡していたのである。

「選挙になると、学校を休みがちになる教師が多い」と嘆くのは、札幌市立のある小学校校長である。「彼らには安定的な学級運営が困難なので、学級担任にしにくい。すると北教組の専従になる例が多いようです。教育者として子供たちと真摯に向き合うという使命感に乏しく、関心はもっぱら政治的な方向です」

「小林議員のことが表に出ても、まるで驚きませんでした」と言うのは道内のある公立中学の校長で、こんな例を目にしてきたという。「組合員は選挙のたびに戸別訪問し、候補者のビラを配り、名簿を集め、それを見て後援会が電話をかける。昨年の衆院選でも戸別訪問していました。顔が知られていない地域を、"後援会の者です" と言って訪ね、しかも2人1組で監視し合う。恐怖支配です。数年前に勤めた北教組が強い中学では、勤務時間に組合の朝会を行い、校長や教頭もいる場で組合の分会長が "今日は2学年の先生が2人1組でこの地域を回ってください"などと選挙の連絡をしていた。驚きでしたね」「法令上は学校の人事権は校長にありますが、道内の多くの学校では組合主導で人事委員会が作られ、委員長に北教組の分会長などが就いて人事案をまとめ、校長に提出する。校長がそれを断れないのをいいことに、北教組は組合を辞めた人を差別するんです。人事権を握り、個人の弱みに付け込んで学校を支配しているんです」こうして教師たちは、見えざる鎖につながれた奴隷のご
とく、"選挙マシン"として稼動するわけだ。

◆広島県教職員組合の例

もっとも、政治活動に邁進しているのは北教組の教師にかぎらない。広島県教職員組合の例について、同県の公立中学の教諭が打ち明ける。「組合員を動員してはがきを書かせ、2人1組で戸別訪問させ、事務所で電話をかけさせる。ただし特定候補への投票を促すと違法なので、"私は○○さんが好きです"という文句を使うんです」「組合員が校長になったら"今後も組合の言うことを聞きます"という確認書に署名させられる。非組合員の校長で、ましてや組合に意見でもしたら、組合の責任者が校長に反省文を書かせます。09年と03年に自殺に追い込まれた校長も、それぞれ反省文を書かされていました」

◆山梨県教職員組合の例 

日教組と政治の癒着について語るなら、山梨県教職員組合(山教組)を忘れてはなるまい。04年の参院選に向け、輿石東氏のために集金活動に邁進し、05年に政治資金規正法違反で告発されたのが記憶に新しい。正確に言えば、告発されたのは

山梨県民主教育政治連盟だが、「事実上、カンパを集めたのは山教組です」と言うのは、自身も組合員である山梨県の公立小学校の現職教諭。

集めた金が県政連の政治資金報告書に記載がなく、政治資金規正法違反に問われた。06年1月に県政連会長と山教組財政部長が略式起訴され、追って山教組の幹部24名も処分されたのだった。むろん、山教組は"集金マシン"にとどまらず"集票マシン"でもある。

教諭の話をさらに続ける。「07年の参院選も民主党の米長晴信議員の票を"1人20票集めろ"との指示。みんな親戚や友達、教え子や保護者にまでお願いし、作った名簿をもとに教員が各地の教育会館に詰めて電話をかけ、グラフを作って学校ごとに競わせていました。各校の分会長は、ノルマに達しないと山教組書記長から尻を叩かれるのです」それを行うのが子供を預かる教師とは恐ろしい。

「逆らえば出世できなくなるので、みな黙って山教組に従うのです」と、先の校長先生。山教組に忠実なら出世する--その顕著な例を紹介しよう。

例の政治資金規正法違反で略式起訴された山教組の元財務部長、長田英和が、市立小学校の教頭に就任。処分された例の教員も小学校教頭になっていたのである。

(週刊新潮、2010/3/11より要約)

正気を疑う「日教組」亡国の教研集会

曲がりなりにも今や政権与党の支持団体である。反日教育の代名詞だった日教組も、責任を自覚したはずと考えるのは早計にすぎるようだ。茨城県で開かれた60回目の教研集会で行われた数々の報告は、売国と自虐に満ち満ちて、とても正気の沙汰とは思えない。

今、日本でどんな教育が行われているのか、その「見本市」のようなもの、と言えるだろう。日教組の第60次教育研究全国集会、略して教研集会が、1月22日から3日間、茨城県で開かれた。先生たちが25の分科会に分かれ日ごろの教育の成果を発表し、のべ1万人が参加したという。

まず、「社会科教育」を傍聴してみた。北方領土学習について報告した根室市の中学教諭は、それが日本固有の領土だと教えているのかと思いきや、「北方領土はどういう視点で考えるべきか、すごく広くて難しい」と、堂々とのたまう。この先生が事前に提出したレポートには、こんなふうに書かれている。「権力者たちにとってみれば、私たちが知恵をつけていくことを恐れている。なぜなら、自分たちが作り上げたシステムを壊されていくことになれば、彼らにとっても困ったことになってしまうだろう。そして、その知恵をつけさせるのは教員の仕事である」北方領土はどこに帰属すべきかわからない、という教育も「知恵」のひとつか。

憲法9条を扱った授業の報告をしたのは、沖縄の中学教諭。「県の教研で討議しましたが、『改憲に反対できる資料を用意しなと、生徒が賛成になるのではないか』という意見が出ました」生徒の意見を尊重するのではなく、改憲論を強引に封じたいらしい。この先生のレポートには、「自衛隊の国際貢献は、実は日本の再軍備につながること、また、それを望む政治家を含めた人々が増えていることを知らせ、『国際貢献』の名のもとで、『戦争のできる国づくり』が始まっていることを理解してほしいという思いがあった」

教育の中立性への配慮が微塵もないこんな主張をしても、日教組の仲間の中では孤立しない。「もっと自衛力を高めようという生徒が論理的で、護憲派は感情的。そこにどう働きかけたらいいかわからず、悩んでいるんです」と、千葉県の教諭が返したように、同じ悩みを抱える同志が現れるのだ。

ゆとり教育を改めた新学習指導要領の導入は、世論の勝利のはずだが、釧路市の中学教諭の、「朝学習や放課後学習など『学力向上』のためのとりくみが強化されてきている。そのため、子どもも教師もゆとりのない日程で学校生活を送らざるを得なくなっている」という声をはじめ、何人もの報告者が「ゆとりの復権」を声高に叫んでいたのだ。

また、宮崎県の中学教諭は学力テストに対し、「現場を忙しくしているだけで、意味が無い。『止めてほしい』とほとんどの職員が思っている」と、ゆとり重視の観点から廃止を訴えるが、子供にとって必要か、という視点はまるでない。レポートにこうも書いている。「いま、『戦争のできる国』づくりのために教育基本法が改悪され、国家主義的な道徳教育が重視されつつある。今の学校の時間の中で、教科や知識、技能を若い世代にいかにして伝えていくかということに使っている時間と、それ以外の生徒の軍事訓練のために使っている時間とどちらが多いのだろうかいうことを考える必要がある」 なんと、学校ではかなりの時間を「軍事訓練」に割いている、というのだ!

民主党が教育基本法を骨抜きにするのを待っているというが、こんな発言が飛び出すのも頷けよう。「学習指導要領について、09年のマニフェストでは、法的拘束力のあるものから大綱に戻す、ということだったので、ぜひ早く宣言しろ、と。学習指導要領に拘束されて作った教科書に強制されなくてよくなるので、そういう戦いもやるべきではないかと思うんです」彼らには教育基本法も学習指導要領も唾棄すべきもので、自分たちが信じる価値観を教育現場に押しつけることが、すべてに優先されるらしい。

「おのれの認識と世間の認識がずれていれば、目に見える影響があるものですが、世間との交流がない日教組の教員にはそれがわからない。そして世間知らずのまま、世間にマイナスの作用をもたらしています」と言うのは、武蔵野大学元教授で教育学者の杉原誠四郎氏だが、こんな連中が教育を牛耳るばかりか政権によって守られている。将来の日本の危機は、もはや底なし沼であるまいか。

(週刊新潮、2011/2/3より要約)

父上様 母上様 永い間御世話になり、誠に有難うございました。

幼より何かにつけ給はりし御恩に報ゆる事も出来ず。

先立つて参ります。

我一身に行末を託されをらるる父上母上の胸中を想ふ時、唯々おわび申し上げるばかりであります。

併し決してお歎きあられる様な死様はせぬつもりでをります故、その点は御安心願へると思ひます。

我肉体は滅ぶれど、我魂は永遠に此所神國の地に留まり 永く 天皇護持の大義に生きあり。

最後に、父上様母上様 お身体を大切にされ、天寿を全うされん事、地下よりお祈りしてをります。

陸軍曹長

重田 純人

昭和二十一年十月十日

ソ連イルクーツクにて戦死病

長野県出身

二十一歳