あきのポヨポヨYOGAブログ ~町田の里山プライベートヨガクラス ディワーリヨガ*Diwari YOGA*

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たのしく・ゆったり伝統的なヨガをしています。日々のおもしろいこと、ヨガサークルやレッスンのお知らせをかいています。

DiwariYOGA ディワーリヨガ
相模原市淵野辺・稲城市若葉台のヨガクラス WEBサイト

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自分を見つめる優しい時間 月2回 10:30~
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淵野辺昼クラスのあとの時間に個人レッスン時間を設けました
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すこぶる怪しいタイトルにしてみた!
そんなキブン!


これはローソンのもちぷよ


ほんとーーに時々聞かれたり
ご希望があったりすることで

瞑想でスピリチュアル的なパワーを強くしたい 開きたい

というものがありますね


みなさまはそんな事を考えたことありますか?
または
瞑想に対してはどこかスピリチュアル的なイメージを持っていたりしますか?


スピリチュアル的なパワーというのは
ヨガでは霊力のことを指すのかなと思う

霊力とは
何かを見通す力 透視みたいなかんじ
何らかの力を授けるかんじ 繋げるかんじ

だと わたしは師匠から聞いております

実際にわたしの師匠(木村慧心先生)は
そんな力をお持ちだとヒシヒシと感じるわけで

そして
「ラージャヨガ行者であればこのくらいはできるようになる」と仰っているのも聞いたことがある
(このくらい というのが何を指すのかがイマイチ分かってないけど)



当のわたしはどうかといえば
霊力?どうでしょうか?

昔から直感が鋭い方だったけれども
木村先生の元で教えをいただくようになってから
勘が冴え渡ることが増えたような気はする

きっとこうだろうな
みたいな相手や物事を見通すというか 見透かす感じ?も
精度が上がったようにも思う
(なので自分の判断や見立てにはある程度自信がある)


これを人は霊力と言うのかもしれないし
スピリチュアル的な力が強いと仰ってくださる方も多いけれど

わたしとしては
冷静に客観視/観察する力が上がった
という感じがしっくりくる

グッと目の前の人とか場に意識を集中して
周りの雑音に捕らわれずに本質や奥を見る

かっこよく言うと
相手の本質に深くつながって見つめる感じ


そんな感じなんだけど

これを
一般的にはスピリチュアル的な力というのかな
どうだろう?



ヨガの瞑想というのは
客観視をすることである

もっといえばヨガのアーサナも呼吸も客観視をすることである

そうやって客観視を進めていくと
瞑想中に何かが見えたり感じたりすることもある

最近のわたしは瞑想中にやたら眩しさを感じる
それが心地よくもある


しかし
師匠はそこで止まるな と仰る

光やイメージなどはまやかしにしか過ぎない 
見えているものには大きな意味はないのだから
見えたことで満足したり自慢したりエゴに走らないように と

その先にあるものを深く観ていくのだ と


だから
瞑想というのは鬼客観視することであって
身につく霊力とかスピリチュアル的な力というのは
魂のレベルまで深く客観視ができる力ということかな
と思う







車を降りたその時に

柔らかな風が吹いた

そうだ 春であったかと思い出す



あたしゃ 詩人だねぇ


今日は気持ちいい最高の陽気でしたね






午前の若葉台クラスを終えて帰宅して

サラサラ吹いてる風を感じたとき

ほんとに最高に心地よかった


気候の心地良さももちろんあるけど

それを増幅してくれるのは

やっぱりヨガの心地良さだなぁと思う



なんかいいなっていう感じ

ほんとに気持ちいい  心地いいっていう感じ


ヨガをすると誰でもこんな感覚になれる

だからヨガは最高



これが

サットチッタアーナンダというもの

私たちの本質は絶対的に幸せで満ちている ということ



でも時には痛みも悩みもある


それでも奥にある至福は変わらない

ちょっと曇ってるだけ

曇りを取るのがヨガのアーサナ、呼吸、瞑想なのだ


曇りが強めの場合は磨くのに時間がかかるけど

必ず奥には歓喜、至福という

輝く神性がある



自分が

サットチッタアーナンダであると

本質的に幸せなんだと腑に落ちたとき

他には何もいらないような感覚になる

迷いや悩みなんてたいしたことないやって思う



これは言葉ではいくらでも書けるけど

自分自身で体験・体感するしかない





ってことが

ヨガで伝えられる本質なんだろうな


わたしはその至福を伝えていきたい

一緒に探していきたいと

思った春の日




例年、2月3月はゆとりがあって

いつもはそのゆとりを確定申告に充ててたんだが

今年は謎にそれも終わってしまって

雪も降っておるので昨日からこの本を読んでいます



こちらは昨年のヨーガ療法学会の時に
お会いできたスワミジのご本です

来日されて20年?とか言ってたかな?
ガチにヨーガの解説本なんだけどとても読みやすい
他にも2冊ご購入したけどもそちらもとても良かった

きっと我々ニホンジンの性質をインドから見てよく理解されてるんだなぁと思う
やっぱり、外から見た方がよく分かるもんだね



わたしがよく考えるのが

自分が(その人が)
どこへ向かおうとしているのか
どんな人生を送りたいと思っているのか

そして
自分が(その人が)それをどこまで自認しているのか

ということで

当たり前だけど
どの人生も方向も生き方も良い

ということ


なので、このようなヨーガの解説本をわたしは心底受け入れるし、日々の生活にもヨーガのクラスにも霊的な成長にもとても役に立つ 

しかし
わたしにとっては最高の教えでも
他の人にとってはそうでもないことを忘れてはいけない
と思う


ま、あれですよ

わたしは静かな生活を送りながら神の方へと近づいていきたいと思うけど
他の人は騒がしくも楽しい生活が良いだろうし別に神とかどうでもいいだろうな、ということですよ


その違いをちゃんと知って認めておかないと
この現代日本でやっていくには厳しいよ というのが
今まで先生方から教えていただいた考え方のひとつです


つまりはバランスということなんだけどね

バランスを取るってことは
客観視をするってことで

ヨーガをせよ ってことになるわけですよね
はい




前にインド修行の時に
自由時間があってさ、もちろん我々弟子達は街に繰り出すわけよ もちろん昼間だよ

かわいいパンジャビドレス買ったり、チャイ飲んだり、モモ食べたりしたいわけよ

でさ
みんなで買ったばかりのパンジャビ着てさ、イソイソお出かけ準備してたわけよ


そしたらお庭で先生に会ってね

先生が笑顔で
「聖なる面と俗なる面」とか言いながら立ち去っていったのさ

それをどう捉えるべきか真意は未だ不明だけど

なんとなく
どっちも楽しむように

って言われたような気がした

今を生きる人間ってそんな感じだよって


なので
私たちも聖なる世界と欲ある世界を
自分なりにバランスとって生きていくのがいいんだろうなと
思うわけです

欲ある世界はとても興奮させてくれるもので楽しいけれども
混乱したり惑わされるのも確か
だから、自分で分かっていながら(客観視をしながら)楽しませていただくのがいいのかなぁと

このヨーガ解説本を拝読しながら思っています


書くと当たり前田のクラッカーな事だけど
案外そうやるのは難しいから
ヨーガを続けていくわけですよ
わたしもね