「Nのために」 湊かなえ | 映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

★★★☆☆

 みなさん、イニシャルN! という話。Dではない。

 

作者に求めるものと作者が書きたいもの

 いや、正直面白くなかったんですよ。
 湊かなえの作品を期待して読み始めるのは、「どんでん返し」と「イヤミス」があるから――という人が少なくないと思うのだが、この作品はそうではないのである。これを「作者の新たな挑戦」と肯定的に取るか「期待外れ」と取るかは湊かなえ好き度によるのかなぁと思ったりらじばんだりであって、私は後者であったというわけである。湊かなえが好きというよりは「どんでん返し」作品が好きなので、ただ普通にガッカリしてしまった次第。
 この辺の問題って難しいよね~。本人が求めているものと相手が求めているものが合致しないと微妙というのは、ある意味では「女子に送る誕生日プレゼント」の問題と通ずるものがあって、相手が期待しているだけに、自分の思いを優先した物を送るとなんだか微妙な笑顔を返されてしまう……って伝わりますかね?
 サプライズをしたいという想いと、びっくりはいらないから自分の欲しいものが欲しいという想いはすれ違うというか……って伝わりますかね?(2度目)
 とにかく、本作にはどんでん返しもイヤミスも存在せず、あるのは「愛ゆえのすれ違い」である。そういう話が好きならば楽しめると思うのだが、いかんせん、湊かなえ作品にそういったものを1ミリも求めていなかったもので、終わってみると「あれ?」という感覚しかなく、とにかく文字通り期待外れだったわけである。いや、決して悪い作品ではないと思うんですがね~。私がまったく違うものを求めて読んでしまったのが二人がかみ合わなかった原因なわけで……
 20代前半の時、ビリヤード好きの彼女にクリスマスプレゼントで「マイキュー」を送ったら「これいじゃない」感がハンパなかった若かりし頃の思い出を猛烈に思い出しました。プレゼントで奇をてらうと失敗しますよ男性諸君! 貴金属送っとけ!(ズレすぎた話)
 

ストーリーは「Nのために」です

 いや、ほんとみんなが「Nのために」動いてすれ違うという話である。やはり仕事でもなんでも「報告・連絡・相談」の「ほうれんそう」が肝心であるとつくづく感じるストーリーとなっている。みんなもっとちゃんときちんと互いに説明し合わないからこうなるだという見本のようなストーリーで、それを責めるのは酷なのかもしれませんがね、何これ?という読了感であった。みんな何やってんねん、と。

 あらすじとしては、高級高層マンションに住む夫妻とスキューバダイビングを通して仲良くなった杉下と安藤という男女と、高級料理店のケータリングサービスをする西崎、杉下と安藤が住むアパートと同じアパートに住む成瀬が、なんだかんだすったもんだかくかくしかじかあって高級マンションの夫妻の部屋に全員集合したら夫妻は死んでたよ~んみたいなところから物語が始まり、各登場人物の「その場面に至るまでの話」と「10年後の話」が書く人物の視点で語られるてな感じである。

 スタートがミステリーっぽかっただけに、あっと驚く真相とかどんでん返しとか「いつもの湊かなえ」を期待させ、ワクワクドキドキで読み進めてみたら、なんかみんな結構まじめな方々で「あれ?」となった次第である。一見すると普通のことでも後から考えるとすげー嫌な感じみたいな湊かなえ節はほとんど、いや一切ない。みんな真面目に生きている。堅物ばかりである。いやちょっと精神的に壊れ気味の奴も出てくるには出てくるのだが、なんかそれもまた「よくある壊れたやつ」なんだよね~ふつー。唯一気になったのは、男である「安藤」が、最初はさも女であるかのような書き方を敢えてしていて読者をミスリードしていた点が「何かあるのか!?」と思わせたくらいである。結局何もなかったのだが。

 湊かなえ作品には「価値観が普通ではない人間」というのが出てくることが多く、そしてそれが一人称で生々しく書かれていたりするのが私好きだったんだなーと改めて「あたし、自分の気持ちにようやく気付いたの!」と体育館裏で叫ぶときの気持ちとなった(叫んだことないけど)。

 まじめはいかんのよ、まじめは。でも、かつて最愛の人だった方から「私は真面目な人が一番好き」と言われて以来、真面目を誰よりも心がけている私です。このブログも読んでお分かりいただけるとおり真面目だけが取り柄ですよね!?

 なんのこっちゃ。

 

小説を書かない小説家志望

 劇中のNの一人「成瀬」は自称小説家であり、小説を新人賞に応募している描写がある。そこで初めて一次審査を通過したということでアパートでお祝いをする描写があり、お祝いパーティーに呼ばれた安藤は「たかが一次審査を通過したぐらいで」と内心毒づくのだが、私はそれでお祝いをしたくなる気持ちがわかる側の人間である。
 少なくても、「自分の作品が読んでもらえた」「多少なりとも認められた」の二つの要素があるからである。小説家志望の人にとってこれは大きな出来事であろう。
 公募小説はいわゆる「下読み」の人が必ず一度は目を通すと言われてはいるものの、本当に読んでもらえたのかどうかは結局は知りようがないのである。しかし「一次審査塚」という結果が出たならば、少なくても読んでもらえた証拠にはなる。また、読んでもらえた上に、少なくても一人には認められたということでもある。
 ブログでも学校の先生に提出する日直日誌でもそうだが、読んでもらえないなら書く気が起きないのは人間の当然の心理であろう。ブログならカウントで、日直日誌なら先生の赤ペンによる返答で読んでもらえたことがわかるが、公募小説の場合、それがわからない。なんの結果も出なかった場合、「もしかして届いてないのでは」とすら考えてしまうかもしれない。
 そんなわけなので、私はこの描写が全然笑えなかった。私はいわゆる「小説を書かない小説家志望」なので(朝井リョウいわく「最も恐れる人たち」)、一次審査通過でもそこに自分の名前があったら嬉しいんだろうな~と恐らく他の読者がまったく何も感じないところに琴線が触れてしまった次第である。まあかといって小説は書かないんだけどね~
 

それでも湊かなえを読む

 あたりはずれがあるのは売れっ子作家なら仕方のないことかなぁとも思う。東野圭吾なんてひどいもんで、面白くない作品は鼻紙にでもしたくなるくらいつまらないこともある。いつもの自分と違う作品に挑戦してみたいというのもなんとなく理解できる心理である。こんなブログでも多少なりとも試行錯誤するくらいなので、プロ作家なら、きっと危機感やマンネリを避けたい心理等は想像がつかないほどあるのではないだろうか。
 しかしそれでも私は湊かなえにはこれからも「どんでん返し」と「イヤミス」を求め続けてしまうだろう。自分がしたいことと相手が求めることの乖離は、男女の永遠の課題なのである(何が?)。
 
 

↓読者の期待と作者の「いつもと違うものを書きたい」という想いはすれ違いがちである。

 

↓なんでも映像化されるのは売れっ子である証。ちなみにドラマ版のみの登場人物がいて、ストーリーの詳細を補完する役目を担っているらしい。また、小説版よりわかりやすいそうな。