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できない人は分析したがる、できる人は改善したがる、というのは私が仕事から得た教訓である。という話。
就職試験に落ちるのは特別な絶望感
最近絶賛朝井リョウ推しなので、あっさり目の感想をば記す。
言わずと知れた直木賞受賞作である。作者は兼業作家として一般企業に勤める社会人2年目の時にこの快挙を成し遂げた。就職活動がテーマの本作は、疑うまでもなく作者の経験がふんだんに盛り込まれていると思われる。
私は就職活動を大学三年生からばっちり行った人間なので、本著に書かれた数々が身に沁みるように行き届いた。もはや懐かしの記憶であるが、面接試験で落ち続けたときの「何がいけないのかわからない感」や「自分の存在そのものを否定されている感」は、本著を通して鮮明に思い出されること請け合いである。あれは二度と体験したくない感覚である。
さらには、「とにかく周りに対してやたらとマウントを取りたがる」という感覚も正直理解できる。できてしまう。そういう風に、自分の自信の無さを克服し、自分のやっていることに価値を見出していかなければ、とても奮い立てなかった。内定をもらった友人の会社にケチを付けたくなる気持ちなど、マジで生々しいことこの上ないことが容赦なく描かれる。朝井リョウは、人間心理の嫌な部分も生々しくも瑞々しく描く天才である。瑞々しい若者の感覚なので、偽物じみていない。
「就職試験に落ちる」という感覚は、実は学校の先生の大半は味わったことのない絶望である。よく考えると、彼らは小学校、中学校、高校、大学と出てまたどこかしらの学校へ戻ってくるという「学校しか知らない」稀有な存在である(そうでない人もごく少数いるが)。それなのに「社会に出たら〜」とか知ったかをするものだから、話がややこしくなるのである。
教員の大半は一回の教員採用試験では合格できず、講師をしながら何度か受験して合格するという「挫折経験者」ではある。しかしながら、教員採用試験は言ってしまえば大学受験とほぼ似たようなものなので、明確な点数が付けられて、基準に達していれば合格、いなければ不合格になり「来年もまた頑張ろう」となる、いってみれば「受験とほぼ同じ」ものであるといえる。つまり、極端な話ペーパーテストで満点を取れば受かる試験なのである。面接が悪かろうとクレペリン検査の結果が悪かろうとペーパーテストが満点ならば間違いなく受かるし、ペーパーテストが悪ければよほどのことがない限り落ちる試験である(何かで挽回することがあるのかもしれないけれど)。そして何より、「また来年」というやり直しがきく試験であるという点が、企業就職とは決定的に異なる点である。
なんか悪口みたいに言っちゃっているけれども、何が言いたかというと、学校の先生は「就職試験に落ちる」という特別な絶望感を全然理解してくれなかったな〜ということである。
要は、学校の先生に限らず公務員試験というのは、「勉強が足りなかったから落ちた」という自他共にわかるはっきりとした不合格理由が存在し「では受かるためにはどうした良いのか=もっと勉強する」という明確な答えがあるのである。それに対し就職試験——特に面接試験での落第は「何が悪かったのかがわからない」という初めての経験をすることになる。もちろん企業側が落第理由を明示してくれることなんてなく、いわゆる「お祈り」というありがた迷惑なことをしてくれるだけである。そして基本的に、就職試験は一社一回限りのチャンスしかない。お祈りをされてしまったら、もう二度と縁はないのである。
しかしながら教員採用試験は、事実上59歳まで受けられる自治体も多く(要は定年寸前まで)、多くの場合は講師という職に就き、ほぼ普通の教員のように振る舞いながら暮らすことができる。雇用実態だけ見ればアルバイト(非常勤講師)であり契約社員(常勤講師)でしかないのだが、周りからは全て同じ「先生」である。フリーターとか期間工とか、マイナスイメージを彷彿とさせる呼び名では呼ばれない。何年も採用試験に合格できずずっと講師をやっていて、教え子がいつの間にやら大学を卒業して企業就職を決めて立派な社会人となったら本来であればまったくもって立場がなくなるはずなのだが、学校の先生も教え子もその辺のことをあまり意識することがないように思う。
別にそこに文句があるわけではないのだが、何が言いたいかというとやはり繰り返しになるが「学校の先生には就職試験に落ちる絶望感がわからない」ということがとにかく言いたい。声を大にして言いたい。教員採用試験に落ちる残念さとは全然別のものなのである。
だから、学校の先生は本著を読んで、この辺の気持ちをちょっと勉強してみたらいいんじゃないかな〜と思うわけである。超余計なお世話だろうが。
それだけで終わらないのが朝井リョウ
しかし、本著を真に直木賞受賞とならしめたのは、その生々しくも瑞々しい描写ではないと思う。ラストである。ラストのどんでん返しが、本著を特別な作品へとならしめたのである。
一人称小説で、主人公に感情移入MAXだからこそ最後に訪れる衝撃が、本著を直木賞へと導いたことは疑いようがない。お前はそこまで俯瞰できるのか朝井リョウ! と叫び出したくなるほどの最後であった。
朝井リョウは、同年代を俯瞰する。それが作品の魅力となっていて、読む者に「自分もかつてそうだった」感を呼び覚まさせる。あるいは今まさにその世代にいる者には、大きな共感を呼ぶのではないだろうか。良い共感も、もちろん悪い共感も。
物語の中に、いわゆる「意識高い系女子」が出てくる。意識が高い割に、その高さがむしろ災いしてとんちんかんな方向に行ってしまうその行動を、主人公が冷めた視線で分析する。その女の子の必死さや、必死ゆえに他人に対してマウントを取りたがる様子もまた、読む者の心の痛いところを突いてくる。誰もが少なからずもつその心の弱さを、主人公の冷めた目を通してグシグシとえぐってくるのである。
が。
それで終わらないのが、朝井リョウなのである。
が、それを語るのは流石に野暮なので控える(私が一番嫌いなモヤっとする気の持たせ方ね、これ)。
気の置けない友人もまたライバルであったり、友人とは呼べないまでの間柄である「就職活動を通して知り合った同級生」など、めちゃくちゃ生々しいラインを突いてくる若い時の感性が溢れ出まくる傑作である。おすすめ。
↓タイトルもまた良いんですよ、これ
↓映画も良い出来でしたな〜が、小説版がやはりオススメです。
今まで観た映画