「マドンナ・ヴェルデ」 海堂尊 | 映画物語(栄華物語のもじり)

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満点は★5。
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★★★☆☆

 代理母に賛成の話。うーん、難しい……

 

 『ジーン・ワルツ』と対をなす物語である。物語は『ジーン・ワルツ』と並行して進んでいるので、先に『ジーン・ワルツ』を読んでおくことは必須である。『ジーン・ワルツ』では患者の一人としてしか描かれていなかった高齢出産の双子の母親が、実は主人公の女性医師の母親で、お腹の双子は主人公の卵子を用いて体外受精によって母親に宿した、主人公の子供なのであったーーということが描かれる。

 

 

 代理母出産の問題はかなり繊細な問題なのでその是非を迂闊には語れないが、作者は明らかに賛成の立場である。また、現役の医師であること、そしてこれほどの名声を得た大家であることを考えれば、その言葉の影響力は大きい。本著を読んだ私のような世間知らずは恐らく、深く考えることもなく代理母出産に賛成するようになるだろうし、産婦人科学会をバカばっかりの集まりだと認識することになるだろう。それくらい扇動的な内容である。もちろん作者は、それを訴えたいがために本著を著したのだろうから、それについて論議をすることはナンセンスである。小説というものの歴史的背景を考えれば、作者の思想を体現する手段として用いられてきたのだから、それを非難する必要はない。まあ私はそういうの嫌いだけど(という非難)。もっとうまく、それとなく書けば良いのに。

 「ヴェルデ」というのは「みどり」という意味らしい。本作の主人公は女性医師の母親、「みどり」である。みどりはある日突然、娘である女性医師に呼び出され、自分の子供の代理母となってほしいと頼まれる。突然の申し出に混乱するみどりだが、娘はみどりの戸惑いには一向に構わず、どんどん話を進めていく。処女懐胎の生母マリアになぞらえ、セックスをせずに妊娠をする代理母みどりを表して『マドンナ・ヴェルデ』というわけである。

 みどりの娘である女性医師の話の進め方が人の気持ちを一切考えられない人間のように描かれていて、読者はまずここで腹が立つであろう。女性医師を「医者としては優秀だが、人間としては欠陥がある」という描き方は最後まで一貫しているので、恐らく狙って書いているはずである。とにかくこの娘は、母親の都合とか気持ちとか立場とか、そういうものを一切配慮できない。母みどりのことを明らかに人間として軽んじていて、かつ、軽んじているという事実も自覚できないという、自閉的な傾向がかなり強い様子で描かれている。わざとだろうけど。ラストなど、みどりの「生まれてくる双子の幸せを考えて!」という立場に対して、「産婦人科の窮状を社会に問題提起する。そのために自分が母親である代理母出産の子供がどうしても必要」という、我が子を社会に問題提起するための宣伝道具のように捉えているかのように描き、かつ、そのことでなぜ文句を言われなければならないのかわからないといった姿をみどりと対比させる。宣伝道具ではないと否定しながらも、生まれてくる子供たちにも「わかってもらうしかない。なぜなら、この仕組みがなければあなたたちは生まれてこなかったのだから」と、弱みに付け込んでぐうの音も出ないように追い詰める学校のセンセーのような物言いでやり込めようとする。

 この場面の描写は実に巧みで、産婦人科が現実世界で直面している問題をはっきりわかりやすく提起しながらも、作者のヘタをすれば偏った意見だと捉えかねないものを極端に描くことで作中人物に敢えて批判をさせ、それを緩衝材として利用している。女性医師が語る内容は恐らく作者の本心で、それを証拠に、それを裁く立場として設定された登場人物に「あなたの意見は正しくて、医師としては賛成です。でもーー」と言わせて、述べている内容自体は否定せずに、それでもあなたには欠けているものがあると諭すことで、読者が離れていくギリギリの一線でうまく防いでいる。怒られる前に怒られそうなことを先に述べておいて気勢を削ぐのは、会議の常套手段である。

 女性医師に欠けているものは、母であるみどりがお腹に宿す子に対して抱いている感情、つまり、母親としての感情である。そのことにようやく気づいた、というテイで物語は進んでいき、最終的には決着する。作者が考える問題提起ができて、作者が考える大切なことも示せて、うまく話をまとめている。そのあざとさがなんかだったんだよね〜。海堂尊は頭が良いのだろうが、頭が良い人にうまく丸め込まれている感がなんだかカンに触るのである。人のことを上から見下ろして小説を書いてんじゃねーよ、と(超被害妄想)。

 また、この母娘の対立に対する最終的な決着の仕方もなんだか腑に落ちない。二人の間に立った20歳のオレンジ色の髪をしたできちゃったシングルマザーに「お母さんがふたり、子どもがふたり、そしたらふたりのお母さんがひとりずつ子どもを生んだ。これでめでたしめでたし」と、双子をふたりの母親で一人ずつ分けろという裁定を下し、ものすごく唐突に、二人はこれに賛同する。

 えっ? なんでこんな案に、そんなあっさり納得なの二人とも。と、超びっくりである。

 作者も自分で描いたこの事態に良い解決策が思い浮かばなかったとしか思えない。なぜなら結局は、二人の子供を、拾ってきた数匹の子猫をご近所さんに分けるかのように描いているのだから。そんなクソみたいな提案を、あそこまで「母の立場」と「医者の立場」で対立していた二人が一瞬で納得する妙案として描くのは、あまりにも唐突すぎるというものである。大風呂敷を広げたものの、畳み方をきちんと考えていなかったのか、はたまた、こんなテキトーな畳み方しか最初から考えていなかったのか。

 この点が非常に不愉快であり、かつ、ところどころ女性医師の言動や物の考え方(それは多分に筆者の主張でもあると考えられる)に「なんだかなぁ……」となったので、★3つという着地である。いつもながら小説としては面白かったのだけれども〜。そこは筆者の筆力であるといえる。登場人物にいちいち変な異名を付けるのはやめてほしいが。『キャプテン翼』の登場人物が自分のシュートにいちいち変な名前を付けるのに似た小っ恥ずかしさがある。

 

↓高校を卒業した人がこんなことを叫びながらシュートを打つのは実は結構恥ずかしい。ネーミングセンスも含めて。いや、好きだけど。なんなら私も30過ぎて「雷獣シュートだぁ」と言いながらポンカスシュート蹴ったけど。先週。(『キャプテン翼 ワールドユース編』より)

 

 代理出産、代理母問題に関しては、私見を述べるのは控える。ただ作中でも述べられているように、「安全な出産などあり得ない」という点は、仮に代理母出産が法整備されたとしても、永遠に残る課題であろう。もし代理出産で代理母が亡くなるということが起きたら、現在の日本では逆風が吹くことは間違いないであろう。代理母となる人の「権利」を、誰が、どのように補償するのかが問題となる。

 子供ーーという存在に関しては、吉野弘の詩『I was borm』が、私の想いの全てを綴っているといっても過言ではない。あるいは、この詩を読んで、私の中に「子供」という概念がはっきりと形作られたのかもしれない。

 

↓気になる方は読んでみて〜。まあネットで検索すれば余裕で出てきますがね〜

 

 「I was borm」という英文は、実は受け身の構文である。ゆえに直訳は「私は生まれた」ではない。「私は生まれさせられた」である。

 そこに、子供の意志は一切介在しない。極論を言えば、父と母のわがままでこの世に産み落とされるのである。時には、直接的に産み落とした母親すら望んでいないのに。

 ただ一方で、母親にとってみれば、出産は自分の命を懸けた「わがまま」なのである。自分に宿った子に会うために、母親は命を懸けてその「出会い」に臨む。

 そしてここに、「代理母出産」という現代的な問題が加わる。

 私が高校生のとき、いろいろなことに苦しんでいた7つ上の姉が、家でことあるごとに当たり散らしていた時期がある。今まで蓄積されてきた不満が20代の半ばを過ぎて一気に爆発し、その恨みは遥か小学生時代の事柄にまで及び、それでも気は収まらず、ある日姉は、母に向かって叫んだ。

 

 「勝手に産んだくせに!」ーーと。

 

 自分の思い通りにいかなかった過去の恨みは、最終的には、母親最大の「わがまま」にまで及んだ。母の命を懸けた「わがまま」は、最終的には姉にとって、その「わがまま」のせいで自分は今苦しんでいるーーという結論になってしまった。

 母が泣いているところを見たのは、後にも先にもその日の夜だけである。暗い母の部屋のベッドの中から、静かな嗚咽が聞こえてきた。

 出産というものが、自分の子供に対して、最大の負い目ともなり得るということを、その日私は理解した。

 ただ、それでも命を懸けて、「母」は自分の子供と会える日を待ち望む。形は違えど、「父」だって同じ気持ちである。

 「生まれさせられた」子に、「生まれてきて良かった」と思ってもらえることを願いながら。

 

 

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