中日春秋
2014年7月12日
 ピアノの巨匠リヒテルは、超人的な記憶力を持っていたそうだ。演奏旅行で世界各地の町を訪れれば、それぞれの地で会う数十人の名前をことごとく覚えてしまう
▼複雑な楽譜ですら一度目を通しただけで覚えてしまうような記憶力は天与の才だが、リヒテルはこんなことを言っていたそうだ。「頭の中に人々の姓名がきちんと列をなし、たえず思い出される。私は恐ろしい記憶力に苛(さいな)まれている」
▼確かに覚えたくないことまで記憶し、忘れることができぬとしたら、悪夢だろう。「忘れる術(すべ)を知っていれば、むしろ幸せ」との至言もあるくらいだ
▼かつて超絶的な記憶力は天才ぐらいしか持ちえぬ能力だったが、私たちはそれが一般化した社会に生きているのかもしれない。過去のちょっとした過ち、誰かの故意か過失で漏れ出た個人データ…。そんな情報がいったん電子の頭脳に記憶され、インターネットで広がれば、消し去ることは難しい
▼欧州では、個人データの管理者や大手検索サイト運営会社などに、市民の「忘れられる権利」を尊重するように求める動きが強まっている。無論、例えば政治家らがこの権利を乱用すれば「知る権利」との兼ね合いが問題になったりと、検討すべきことは多い
▼しかし、それこそ皆が「恐ろしい記憶力に苛まれる」ことにならぬために、「忘れられる権利」はもっと議論されていい。
中日春秋
2014年7月11日
 メッシは、走らない。サッカーのワールドカップで、アルゼンチンを決勝進出に導いたエースがきのうまでの六試合で走った距離は、計五一・九キロだそうだ
▼今大会でこれまでに一番走ったオランダのスナイダーは六九・六キロ。ドイツのノイアーがゴールキーパーながら三一・五キロも走ったのに比べれば、いかにも見劣りする。特に守りの時、その走りは極端に落ちる。「めっし」とパソコンで打てば、まず「滅私」と変換されるが、滅私奉公には程遠い働きではないか
▼ここ一番では驚異的な働きをする天才には失礼ながら、そのプレーぶりをテレビ観戦しつつ思い出したのは、進化生物学を研究する長谷川英祐さんの著書『働かないアリに意義がある』だ
▼みなが目を三角にして働いていそうなアリの社会でも、やたらと腰が重いアリが相当数いる。二割のアリはほとんど働かぬという。全員が一斉かつ懸命に働く方が効率的に思えるが、そうではないらしい
▼いざ不測の危機に襲われた時や、運びきれぬほどの食料が見つかるような好機が到来した時こそ、腰の重さゆえに体力を温存したアリの出番となる。非効率に見える「働かぬアリ」がいる巣の方が長く残るというから、虫の世界は奥深い
▼さてワールドカップの決勝はドイツ対アルゼンチン。超効率的なドイツに、走らぬメッシ率いるアルゼンチンはどう戦うだろうか。
中日春秋
2014年7月10日
 同じような痛みや不安、恐れに苦しんでいるのに、互いに分かり合うことはできない。見えない壁が相互理解を阻む。そういうことが世の中では、まま起きる
▼いまイスラエルとパレスチナの地で起きていることは、その一例だ。先月中旬、ユダヤ人の少年三人が誘拐された。眠れぬ夜を幾晩も過ごした家族に届いたのは、遺体発見の悲報だった。イスラエル政府はパレスチナの武装勢力の仕業だとし、報復を求める声が高まった
▼今月一日、今度は十六歳のパレスチナ人少年がさらわれた。母は携帯電話にかけ続けたが、応答はなく、遺体で見つかった。生きながら焼かれるという最期だった。ユダヤ人過激派が逮捕され、パレスチナ側で報復が叫ばれた
▼高まった緊張は、ロケット弾やミサイルの応酬にエスカレートしている。パレスチナのガザでは既に二十人を超える死者が出て、子どもたちも犠牲になっている。四人の少年の死が引き金となり、無数の悲劇を生み出しつつある
▼殺されたユダヤ人少年のおじが声を詰まらせつつ、英国のラジオ局の取材に語っていた。「流される血は同じです。暴力は歩むべき道ではありません。どんな神を信じていようが、だれが実行しようが、殺人は殺人。正当化などできないのです」
▼そんな声は、砲声にかき消される。報復の砲弾が飛び交うたび、憎悪の壁だけが高くそびえていく。