2014年8月18日
中日春秋
 英劇作家のバーナード・ショーが「医者のジレンマ」を書いたのは一九〇六年。結核の特効薬、ストレプトマイシンが登場する前である
▼こんな筋だ。結核の新たな治療法を試す医師がいる。二人の患者が自分を治療してくれと訪れる。問題は治療法は患者の人数が制限され、二人とも助けられないこと。助かるのはどちらか一人
▼西アフリカでエボラ出血熱が拡大している。死亡者は十三日時点で千百四十五人。勢いが衰えない。世界保健機関はエボラ感染者に臨床試験前の未承認薬の使用を認めたという
▼異例の判断で、これも一種の「医者のジレンマ」だったか。効果や安全性は確認されていない。それでも手をこまねいていられない。賭けである。投与された米国人の症状は安定してきたというが、その効果と、想定外の副作用のないことを祈るしかない
▼未承認薬にしても圧倒的に足りない。増産には時間がかかる。誰に使用するかの問題も起きるだろう。あの戯曲と同じである。米国人にまず使用されたことに批判もあったと聞く
▼ショーが描いたのは医師がどちらかの一方の命を選択する問題か。人の価値は同じはずなのに誰かが生死の順番を決める。その一方、足りぬ薬を前にして「じゃあどうする」の問いに答えがあるとは思えぬ。効果不明の薬の増産を待つしかないのか。人類に課せられた試練は重すぎる。
2014年8月17日
中日春秋
 野球史上、最初の変化球はもちろんカーブである。姫野龍太郎さんの「野球がおもしろくなる変化球の大研究」によると一八六〇年代のことで当時は「本当に曲がっているのか、それとも目の錯覚なのか、真剣に議論され、調査された」という
▼甲子園夏の大会。一枚の写真に目の錯覚か合成かと疑った。投手は投げ終えて突っ立っている。打者は構えている。ボールはどこへ。打者の頭上にある。東海大四のエース西嶋亮太投手の超スローボールを撮影すると、こんな痛快な写真になる。遅すぎて、計測できないそうだが、六十キロ台か
▼高校野球を見て感心させられるのは、体格、能力では超高校級とはいえぬ選手らの工夫と努力。昨年も、小柄な選手が出塁しようと必死でファウルを打ち続けていた
▼西嶋投手も大きい方ではない。直球は百三十キロ台というから現在のレベルでは「並」。自分の力を見極め、編み出したのが、あの人を食った投球術なのだろう
▼速い球をいかに投げるかの競争を尻目になかなか届かぬ魔球。「こんな考え方もあっていいでしょ」という発想が軽やかでたくましい。いい顔をしない人もいるが、カーブだって百五十年前は「卑怯(ひきょう)」な球といわれた
▼球の遅い、中日の松本幸行(ゆきつら)、ヤクルトの安田猛がひいきだった。工夫すれば、何とかなる。勝てるかも。遅い球は「普通」の子をその気にさせる。
2014年8月16日
中日春秋
 <あなたがたのうちで罪のない者がまずこの女に石を投げなさい、との言葉に、太った無垢(むく)な青年が巨大な石を抱えてのっそりと前へ進みでた>
▼ダンサーで作家の飯田茂実さんの書いた「一文物語集」にあった。わずか一文の物語なので、引用した部分でおしまいなのだが、短い分、余計に恐ろしい
▼聖書ではキリストの「罪なき者だけ石を投げよ」の声に皆たじろぐのだが、この物語では自分こそ罪なき存在であると考えた「太った無垢な青年」が前へ進み出てくる
▼不気味である。自分には石を投げる権利があると手を挙げる身勝手さと思い上がった心。そのこと自体が「罪」であることに気づいてもいない。この物語の続きを考えるならば、神はまずこの男を罰したに違いない
▼東京都内のホームレスの四割が何者かに襲撃された経験があるという。石を投げる。自分とは異なる生活を送っているというだけで必死に生きる同じ人間を排除でもしたいのか。誰かをあなどり、傷つけても構わないと考える曲がった心に戦慄(せんりつ)する
▼石を投げる子ども、若者がいる。こうも考える。この子たちもある時は誰かに石を投げられる存在なのかもしれぬ。悲しいことだが、人は自分より弱い人間に向けて石を投げる。投石の連鎖に目をつぶり、子らをうまく導けないのなら、大人も社会も国もまた、「罪のない者」であるはずがない。