2014年9月5日
中日春秋
 テニスの全米選手権で、一九二二年に八強入りを果たした清水善造選手のフォームは、珍妙だったという
▼へっぴり腰のような低い姿勢で、ぎこちなく見えるから、「草刈りテニス」と呼ばれた。実際、群馬の貧しい農家に生まれた清水選手は、進学の学費を稼ぐために毎日、足腰が立たなくなるほど草刈りをした
▼農作業で鍛えた足腰で球を拾いまくり粘りに粘って、自分のペースに引きずり込む。対戦相手は「あいつとやると、まさか、と思う間にやられている」とこぼしたそうだ(上前淳一郎著『やわらかなボール』)
▼錦織圭(にしこりけい)選手も、驚異の粘りで全米オープンを勝ち進んでいる。二試合続けて四時間超の激闘。対戦相手には「まるでコートで死んでしまいそうに見えた」らしいが、生き残ったのは錦織選手。熊谷一弥選手が一九一八年に達成した全米四強入りを果たした
▼日本のテニス界の黄金期を築いた清水選手と熊谷選手は、対照的なプレーヤーだったという。清水選手は、ポイントを取っても取られても、いつもほほ笑んでいるように見えるから、「スマイリー・シミー」と呼ばれ愛された。熊谷選手は闘志を前面にコートをえぐるような球をさく裂させ、猛牛とも評された
▼粘り強さと闘志を併せ持つ錦織選手は、先人も登り切れなかった頂の上に立ち、あのはにかむような柔らかい笑顔を見せてくれるだろうか。
2014年9月4日
中日春秋
 政治家には、どんな資質が求められるのか。英国の名宰相チャーチルの有名な言葉がある。「明日、来週、来月そして来年に何が起きるか予言する能力。そして、どうしてそれが起きなかったかを説明しうる能力だ」
▼こんな予言をした政治家がいる。「女性が首相や財務相、外相になることは、私が生きている間にはないでしょう。いずれにせよ私は首相になりたいとも思いません。全身全霊をささげなくてはなりませんから」
▼発言の主は、当時四十代半ばの中堅政治家だったサッチャーさん。五十三歳で英国初の女性宰相となった彼女が、自らの予言が外れた理由をどう説明したかは知らぬが、こんな言葉を残している。「政界で何かを言ってほしいなら、男性に頼みなさい。何かを実行してほしいのなら、女性に頼みなさい」
▼そんな実行力に期待したのだろうか。安倍首相はきのうの内閣改造で、過去最多に並ぶ五人の女性閣僚を誕生させ、「女性活躍担当相」なる職まで新設した
▼名前負けせぬ活躍を期待したいが、新閣僚らにいま一度、目を見開いてもらいたい現実がある。母子家庭では、働くお母さんの四割以上が非正規雇用。一人親世帯の貧困率は54・6%に達している。「女性安心担当相」を設けた方がいいくらいだ
▼この問題を放置し続けたら、どうなるか。政治家ならば、それをきちんと予言してほしい。
2014年9月3日
中日春秋
 ウィリアム・バスビーさんは米軍の兵士だった。アフガニスタンの戦場から戻ってきた彼は異様なふるまいを見せ始める。水道でいつまでも手を洗い続けて言う。「落ちないんだよ」。手に汚れはない。「何のこと?」と母親が聞くと答える。「血だよ」。彼は二十三歳で死んだ。銃を自らに向け撃ったのだ
▼米兵の命を奪うものは何か。一昨年、自ら命を絶った兵員の数が、軍事行動で命を落とした兵員の数を上回ったそうだ。米兵の自殺率は一般の人の二倍前後といわれる
▼戦場で無残な死を見続け、悪夢にさいなまれた人ばかりではない。部隊内での暴行などで追い詰められた兵らにも自殺が目立つという。今や米軍にとって自殺防止は恐るべき“戦線”となっている
▼一人の戦死者も出していない自衛隊でも、自ら命を絶つ隊員は後を絶たない。海上自衛隊で上司からいじめを受けた隊員がまた自ら命を絶った。いじめは同僚らに目撃され、この隊員は転勤を願い出ていたが、無視されたという
▼東京高裁はこの春、いじめで起きた隊員の自殺をめぐり、海自が実態解明の鍵となる文書を隠していたと断じる判決を出している。やまぬ悲劇が暴いているのは、隊員の心の痛みと向き合わぬその体質だろう
▼自衛官の自殺率はかつて一般の人と同じ水準だったが、一・五倍にもなっているそうだ。米軍並みになっていくのか。