文学界の6月号に、「世界は村上春樹をどう読むか」という特集があることを聞き、借りて読んでみた。
面白かったのは、前半部分。柴田元幸が中心になって、村上春樹を訳した世界各国の翻訳者たちと、彼の作品を訳すことの難しさ、面白さを語っている。
たとえば、「グシャッ」というような擬音が悩みの種になるらしい。確かに擬音語・擬態語は日本語特有のものが多いから、これはなんとなく想像がつく。ほかにもひらがなとカタカナの使い分け(これは大文字と小文字の使い分けで対応している、という訳者がいた)や、海外では違う名前で販売されているスカイラインなどの車種名などをどう訳したか、というあたりに各国の訳者の工夫が感じられた。
面白かったのは、翻訳の過程において、原文にはなかった言葉遊びが生じることがあるということ。たとえば、「スパナで鎖骨を砕いた」という原文をチェコ語に訳すとき、チェコ語でスパナは「鍵」という意味を持ち、鎖骨は「鍵の骨」という意味になるので、訳文が「鍵で鍵の骨を砕く」という、一種洒落めいたものになるらしい。多言語が読める人だと、こういう原文になかった言葉遊びを訳書で発見できるという楽しみがあるんだろうなあ。ちょっとうらやましい。
ところで、内田樹が村上春樹の作品について、こんな見解をブログに載せていた。
村上文学には「父」が登場しない。
つまり、「父」的な支配者、抑圧的な存在がいないのだ。
村上春樹は、地図もなく、自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。
その歩みは足跡を残したごく狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
(一部補足&省略してあります。あしからず)
今まで読んだ中で、もっとも納得のいく村上春樹の捉え方かも。
BGM:My brand new eden/山田タマル
