吉井陣屋は上信電鉄線吉井駅のすぐ南に構えていた。今は住宅地となり、中央を道路が通り抜けたりして跡形もなくなっているが、南西の端にあった春日社の跡が残り、またすぐ南の吉井文化会館に正門が移築保存されている。
宝暦二年(1752年)、二代目藩主鷹司松平信友が矢田陣屋に代わって築いた。この吉井藩もしくは矢田藩は、五摂家のひとつ鷹司家出身の松平信平がこの地に7000石で旗本となったのが始まりで、宝永六年(1709年)に松平信清が知行1万石の大名となって立藩されたもの。家格の高い小藩ということで財政は厳しく、幕末には情勢にも翻弄されたとか。
新堀城、矢田陣屋隣の代官所と回って昼過ぎのスタート、久しぶりの晴天でかなり暑い中、道が狭くて車通りのある町中を散策…🥵
車は文化会館の駐車場へ。
その文化会館の入口に、移築保存されている陣屋の表門が立っていた。高崎市の重要文化財。
オノレはどんな城めぐりしとるんじゃ…😮💨
傍らには説明板。
陣屋はここから少し北、上信電鉄線吉井駅の方へ歩いていったところにあったが、今はごく一部を除いて宅地化されたのだとか。
南西の端にあった春日社の跡地が唯一宅地化を免れているようなので、そこへ行ってみる。
町中を少し北に進み、そこから西に歩いてゆくと、住宅地の中に土壇のような高まりが現れる。
これが今残る唯一の土木の跡で、陣屋の南西隅の春日神社があったところとのこと。
と…言うことは、
前を走るこの道が、陣屋の南西側の堀跡だったって事か…😮
土壇を向こう側から眺める。
では、土壇に登ってみるか。
標柱と説明板。
真ん中にフェンスで守られたケヤキの大木、奥の方に立派な石碑が2つ。
手前は大正天皇・皇后が訪問された記念碑、向こう側は吉井藩治碑だそうだ。
さて撤収する時に向こう側をよく見ると、石段があった。
これは往時の春日社のやつかな…?😮
この周囲、堀とか建物とかあったらしいところを歩き回ってみたが、ことごとく住宅地になっていて、往時を物語るものは何一つ見つけられなかった😅
いま見てきた二ヶ所に、陣屋を物語るものがすべて詰まっている、というところか。
★吉井陣屋
群馬県高崎市吉井町吉井
市の吉井文化会館の駐車場を利用。ここに移築された表門が立つ。マップ上ピンは陣屋中心だが遺構は無。
平城
(2025年11月6日 記)






