臼子城は新城の町から北西の方、東三河の山に入る前面にある。いまは作手方面への国道301号が裾を通り、山側を新東名高速が貫いているが、城趾はよく残っている。
永正二年(1505年)に作手にいた奥平氏が築いたとされ、その最南端の城として機能していた。新城にいた菅沼氏に一時城を奪われたり、今川、徳川そして武田の争いに巻き込まれたりしていた。長篠の戦いのころには対武田最前線の長篠城や亀山城などの後詰めのような位置にあって、奥平久嘉が城代として入っていた。徳川家康とともに奥平氏が関東に移封されるとともに廃城となったよう。
三連休の中日、朝から設楽原の西の端っこあたりの城館を3つ収められたので、早くも西へ反転してこの城へ😅💨
登り口は国道のすぐ脇で、幟が立っている。
ここからの登道もしっかりしている。
部分的にコンクリ舗装も…
すぐに、東端の墓地への道が右に登ってゆくが、ここは直進して城の主郭へ。
両側のシダは濃くなっているが、すぐ上が主郭だし道は見えているので、気にせず登ってゆく。
そして、主郭へ。
ここにも幟が立っている。
主郭は、東西が50メートルをはるかに越えるぐらい広大な矩形をしている。
奥行きは20メートル無いぐらいか。
東側の端に墓地のある高台が見える。
西側は植林地になった曲輪が、端まで広がっているようす。
深さが人の背丈ぐらいあって、柵などされていないので、落ちないよう注意がいる⚠
内壁、ちゃんと石積で固められてる😮
なかなか見ないような、立派な井戸だ✨
続いて、主郭の北端に行ってみる。
まっすぐ斜面になって降りているのかと思ったら、2メートルばかり下に帯曲輪が走っていた。
この帯曲輪、西へ進むとだんだん登ってきて、最後には主郭に合流していた。
その下は、正真正銘の段丘崖…切岸…どっちだろ?😅
ともかく、急傾斜で落ちている。
つづいて西の方へ。
西の端は一段下がって、その先に舌状の曲輪が広がっている。
倒竹が多くて荒れてるな…🤔
主郭との間の段はハッキリ見える。
つづいて、南側へ。
ここも、2メートルばかり下に帯曲輪がある。
出入は西側の曲輪からやってたのかな?
なんとなく、動線のようなものが見え、実際に歩いて登降することも出来た。
帯曲輪は北のものよりだいぶ狭く、幅2メートルぐらい。
そして、この下もそこそこの急傾斜で降りていた。
そして、こちら側は高低差が北の方よりも大きいようだ。
さて、ラストは城内最高所たる東端の櫓台のようなところ。
いまは墓地になっているが、ひときわ目立っている。
切岸や盛土の加工もしっかり施されたようす。
天端は墓地なので撮影しなかったが、バドミントンコートぐらいの広さか。
主郭も東側を通る国道301号線も俯瞰できるが、絵にならんので主郭を見おろした。
東の高土塁や中央の井戸などはあるが、全体的にはフットボール場がそのまま高台に乗っかったような素朴な縄張りの城だったが、戦国時代の城は技巧的な防御より堅固な城をシンプルな普請で築くほうが大切だったということを、静かに語っているような感じがする。
前の日に防御ガチガチながら悲惨な末路を辿った高天神城を見ただけに、よけいに湧き上がる感慨…
★臼子城(うすごじょう)
愛知県新城市豊栄
登城口前の道路脇にスペースあるが、車で入って良いのか未確認
山城
(2025年1月30日 記)