石田城はJR飯田線を野田城駅から少し先に行ったあたりの豊川右岸の段丘の端っこにある。豊川に右岸から野田川が注ぐところの北側の突端、南東南西が段丘崖になっているところを上手く選んでいる。
池田輝政麾下の片桐半右衛門一長が天正十九年(1591年)に築いた。6年後に半右衛門が病死すると、主家から養子として入っていた池田長政が跡を継いで居城としたが、慶長五年(1600年)に姫路に移ったことで廃城となった。半右衛門が長政のために築いた城だったともいわれるとか。
野田城から徒歩で大野田を訪問、その足でこの城も訪れることにしたが、寒気団が流れ込んできて時雨模様になっていた🥶
ここから住宅の間をすり抜けるような狭い道に入ってゆく。ここから先に車を停める場所は無い。
入って200メートルも進むと住宅の間を抜け、右手前方に城塁に幟が立っているのが見えてくる。
いかにも古城という雰囲気✨
道は城の東側の離れたところを南に通り過ぎてゆくので、城の正面まで来たところで城の前への道に入ってゆく。
途中から畦道になってしまうが、見学者が入っていけるよう整備されているようだ。まわりの畑に足を踏み入れたりしないよう注意しつつ城の前まで行く。
城塁の中段にミカンの木が植えられて、その横をすり抜けるように階段が登っているのが見える。
その手前、左と右奥に伸びているのは、城を守る空堀のようだ😮
左側は浅く、茅みたいのでモサモサ…
丘の末端に出て終わっているようす。
右奥への空堀は、すぐにカクンと左に折れて、城の北側を守っているようす。
浅い箱堀の断面が見える。
城塁の外側で、箱堀がきれいに急カーブを描いている。
こういうのに萌える✨
さて、畦道だか土橋だかを通って堀を渡り、城塁の真ん前へ。
遠くから見えた階段は腐りかけて崩れたりしているし、ミカンの梢の下を通っていてお辞儀をしても通れないので、左側から避けて登る。
土塁かと思ったら、天端がかなり広くて多聞櫓みたいなのが立ちそうな空間だった。
その南端外側、堀の内側には小さな曲輪みたいな空間があった。
城塁の内側が主郭ということになろうが、縁が鋭い😮
内部はメチャクチャに濃いぃ竹ヤブで、中へ踏み込むのはムリなようだ…
ひとまず、平坦な城塁の上を歩き回ってみる。
北の端から見下ろす空堀のカーブ、なかなかシンメトリック✨
北側の空堀は、手前の植林とのコントラストがステキ✨
しかし、この城塁の上も西の方へ入ると相当荒れているようだった…
それでも、20メートルぐらい入ったところで一段高くなっているのが見えた。
段の上に登ってみると、周囲より高くなった櫓台みたいなところだった。
東西7メートルぐらいか。
その先は2メートルぐらい低くなって、内外の二段構造になっているようす。
もう灌木だらけで分かりにくいったら…😂
その前方に、大きな盛り上がりが見える❗️
って思ったら、その裾をS字カーブを描きながら城外から道が入ってきていた。
これが本来の虎口だが、なんとココは整備されていたか😀
反対側の盛り上がりは、絡みつく木の根に注目。
生命の凄まじい息吹を感じる😨
底に降りる。
主郭の内部も、一部草刈りされているようだ😀
そして、主郭。
刈り払われたのはごく一部だけのようだが、なんと少し奥までひとすじの道を通してくれている😀
残念ながら、この道は向こう側の段丘崖までは拓かれていなかった。
それでも、この城のことを気にかけてくれていることは分かった✨
さて、この虎口から退城するか💨
郭内からは西側の盛り上がりが目立つ。
S字を描く動線を進むと、浅い堀を渡る土橋。
低いけど、ハッキリ見える✨
ここからの道は外と繋がっていて、畦道などを通ることなく城に入ることが出来る。
東側の城塁まわりは見どころのひとつだけど、この虎口とは散策路が直結していないから、やっぱり東側からも入れるようにしたほうが良かったのだろう。
主郭や段丘崖に面したところが猛烈なヤブで踏み込めず、立地の妙を味わうことは出来なかったが、集落の奥にひっそり、しかしどっしりと構える古城らしい味を持った城だった✨
そして、主君の池田家歴代から柱石のように重用され、その主家から迎えた養子のために築いた城とのことで、少しほっこり😊
★石田城
愛知県新城市石田西金国
駐車場なく集落内は転回も不可。大野田城の駐車場に停め徒歩でセット訪問が無難。
丘城
(2025年1月8日 記)