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鎌倉幕府の草創期に活躍した三浦一族の本拠地として、そして源平合戦の緒戦で迫りくる畠山重忠の軍勢から一族郎党を安房へ逃がして1人残って戦死した三浦大介義明最期の地となった衣笠城。

いまは横浜横須賀道路の衣笠インターチェンジのすぐ西、大善寺の周囲一帯に広がっていたとのこと。 大善寺の裏山を占める山城と考えられてきたが、そのあたりだけでなく周辺の谷戸までの広がりがあったとの考え方もあるという。

大善寺周辺には蔵王権現跡など以外に土木遺構はほとんど無い。ただ、今は横浜横須賀道路が通っている南側の山中に、ずっと後の戦国時代に築かれたらしい城郭遺構があったとか。


JR衣笠駅からの徒歩行軍、最初に登った郷山城から久里浜田浦線を歩いてきた。

今思うとこの道路沿いも谷戸状で、往時の衣笠城も一部だったのかも…?

そう思うと、この小山がなんとも頼もしき門番に見えてくる。

(久里浜田浦線から郷山城)

こちら側に衣笠城へアクセスできる道などは無く、太田和街道入口交差点からの登城となった。

その交差点の傍らに、城の追手口がここだったことを示す石碑が立っていた…


往時はここから背後の尾根を登って城内の御霊神社跡のところに出ていたとのことだが、今は法面防護にガチガチに固められて、往時の面影は無い。


現在位置(Googleマップで)

太田和街道に入ると、すぐに矢取不動尊、大善寺とともに城への入口なことを示す道標が立っている。

「衣笠城跡」矢板の後付け感ったら😂


ここから、大きな法面防護工に覆われた丘を右手に見ながら住宅地の中を進んでゆく。

三浦縦貫道路のトンネル上あたりまで、歩いて登っても息が切れそうな急坂が続く💦


いちど平坦になって三浦縦貫道路のトンネル上を通り抜けると、ふたたび登り坂。

その左側にコンクリで固められた不動井戸、右側に大善寺に登る階段がある。

ちゃんと三浦義明と、三浦一族縁の地をPRする幟が立っている😮


道端には、大善寺の説明板。

奈良時代に行基が開創したというから、城よりずっと先輩。


なお、ここまでにあるという滝不動と旗立岩は、どちらも見逃し😂

旗立岩は民家の裏に今でも残っているらしいが、そりゃ見つけられませんて… ←言い訳すな〜っ😮‍💨

 

階段を登ると墓地への入り口のある段、そこから本堂に登ってゆく階段にも幟✨


ここから寺の境内を通っても城内に行けるが、参詣者もけっこういる前で本堂の前をスルーも気分悪いだろうと思い、一旦外へ。

寺の前から少しだけ車道を上に行った、この階段からも入ることが出来る。


寺の境内の前まで来ると、城の説明板が立っている。


少し先で、左に道が分岐している。

この道は広い傾斜地となっている主郭の方へ向かう。

直進すると、城の東端に出る。


ここで左に行くと、この標柱が立つあたりから上が主郭にあたるような緩傾斜地になる。

が、まずは直進すると…

 

オオッ❗️なんか城してる🤯


それほど広くはないが、そこそこの建物は建てられそうな削平された空間に出た。

 

外側の斜面の下にはちょうど大善寺の本堂がある。

傾斜はそれほどきつくないみたい…


石碑が二つ立っている。

ひとつは植樹記念碑、もう一つは蔵王権現の碑だった。


蔵王権現は大善寺などとともに三浦一族にとっての拠り所だったそうな。
土木工事の跡がほとんど見えない城内にあって数少ない削平地で、念入りに工事されたようすが窺えるな…

その上側もちゃんとした段になっていて、これが低いながら鋭い。


上から見ると、縁がしっかり削ぎ落とされている様子が見えるか✨


そして、段の上の空間は…

平坦に見えるが、じつは何となく城内に向かって傾いている…😮


奥のほうが高くなっているが、これは土塁や櫓台ではないみたい…

御霊神社の石碑と、今の御神体をおさめているらしい祠が立っていた。


大善寺だけでなくこの辺の空間も、宗教色が濃いぃ感じ。

三浦一族にとって一番大切な場所だった雰囲気がいまも漂っている。

 

さて、ここから西の方には傾斜のある広い空間が広がっている。

ここが城の主郭にあたるところだが、削平や段郭の造成といった土木工事はろくに施されていなかったようす。


その南側には、堀底道にも見えそうな園路。

やけに武者走り跡のように見えるが、さすがに後補か…😂

何でも遺構に見える病やろ…😮‍💨


この広い傾斜地の真ん中少し上の方が、平坦になっている。

ここが城の中心だったのだろうか。


園地の案内図と、石碑が立っている。

三浦大介義明公八百年記念碑とあるので、昭和後期ぐらいに立てられたやつか?

(三浦大介義明が戦死した衣笠城合戦が1180年8月)


この広場の向こう側に、物見岩が鎮座する。

そこまでも緩傾斜で登っているが、岩の周りは急傾斜で、樹木も増えて薄暗くなっている。

その手前、ここにだけツワブキが咲いていた💕


そして、物見岩の周り。

だいぶ南への傾斜がキツくなっている。

岩の下から経典が出てきたことを示す記念碑も立っている。


岩は、のしかかるような迫力😮


向こう側に上へ登る階段道がついているので登ってみると、岩の上は平らになっている。

たしかに、この上に立って周囲を見張ることも出来そうな位置。


反対側には、曲輪のような広場が広がる。

縁は柵されていて、ここまで公園の雰囲気。


その向こう側には、少し低くなった向こう側に大きな岩がそそり立っているのが見える。

いちおう空堀らしいが、少し浅いな…


柵されているので乗り越えるのはやめて、北へ回り道して見に行くか…

広場まで戻ると、平作の方へ伸びてゆく尾根に登る道が出ている。城の先で通行止めらしい。

しかし、以前見た時より両側のヤブが迫ってきてるような…😨


そして、外側の斜面…
相変わらず山城と思って見ていたが、そうでなくてもここを登って攻め込むのは大変そう…

そして、物見岩の奥の曲輪の外側を横断している空堀。
左側が物見岩、右側には壁のような大岩がそそり立っているが、後の時代の山城に掘られるようなやつと比べると、だいぶ浅い。

ここから先へは通行止のようなので、ここで引き返し。

このあと、お城エキスポの終わりを睨みながら大矢部城を狙いたかったので、これで退散💨

で、大矢部城は墓地側の登り口が封鎖されて登れなかった…😢

 

で、京急で横浜に戻り、みなとみらいで開催されていた、お城エキスポに行って三浦一族のブースに展示されていた衣笠城ジオラマで答え合わせをしたんだが、大善寺から上だけしか城と見ないで遺構ねぇと目を皿のようにしてた時点で不正解、周囲もひっくるめた領域までが衣笠城とのことだが見たのは郷山城南側の道路が通る谷戸だけ、という有り様だった。


こりゃ追試確定の落第…😂

いやはや、何度見ても理解がタイヘンな城っす😅


このような、一定の範囲を城にするという考え方は、房総にたくさんある一定の範囲の山稜を城壁に仕立てて内部を曲輪にする築城法と相通じるものがあるように思えたんだが、実際はどうなんだろう…??

 

★衣笠城

神奈川県横須賀市衣笠町

大善寺の駐車場は城への訪問には利用不可のようす。衣笠城址バス停から徒歩5分ほど。

山城

 

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(2024年12月27日 記)