岩井山城、もしくは勧農城は足利の町の南側、渡良瀬川が蛇行するところの先端に盛り上がる小山にある。麓から城内にかけては縄文時代の勧農遺跡も広がっている。
関東で戦乱の火が吹き始めた文正元年(1466年)に山内上杉家の家人長尾景人が築いた。折しも享徳の乱の真っ最中で足利成氏の手中にあった下野国に楔を打ち込むような位置にあった。乱が1483年に終結したのも束の間、わずか4年後の長享元年(1487年)には時の城主長尾房清が扇谷上杉家と結んで蜂起し、これを山内上杉顕定が討ったことが長享の乱につながった。その後1512年には本拠地が足利城に移った。その後はよく分からないか。
前日から二つの石尊山登りで疲れたので、最後は登らない城へと思って城を探していたところ、 お誂え向きの場所にあったので立ち寄った次第…😅
ヘタレが…😮💨
城チカにエコアールグリーンプラザがあり、そこの駐車場を使わせてもらうのが一番良いだろう。
そこから歩いてゆくと、正面に城址の東端の登り口に着く。
傍らには色んな看板が立っている。
説明板も。
階段を登ると、すぐに赤木神社の鳥居が立っている。
右側には、早くも城塁が見える。
鳥居の反対側には、神社の境内から伸びる曲輪の末端だろうか。
参道から外れ、土のまんま残っている。
階段を登って左に折れ、鳥居をくぐると赤木神社の境内。
神聖な雰囲気が漂う。
社殿は城塁の懐、一段高いところにある。
周囲に入ってはいけないようだ。

城へは、社殿の左側に錆びついた標柱が立っていて、登ってゆく道がある。
入ってゆくと社殿の横を通って、すぐに南側に広がる曲輪に通される。
境内よりは一段高いところで、右手に城塁が見えている。
まずは南端まで行く。
崩れかけた建物の向こうに、立派な社殿が見える。
これは乳房地蔵尊の社殿。親子地蔵が祀られているという。母子の健康を見守る菩薩。
社殿の前にも六地蔵。
本尊は社殿の中だが、この地蔵たちにも屋根掛けされ、大切に守られている。
麓からここまでの参道も登ってきているようす。
さて、このあたりは露岩があったり斜面が急傾斜だったりして、主郭のある城塁へ登ることが出来ない。
主郭直下などは、ブルーシートも掛けられている😮
ただし曲輪のすぐ下が墓地になっていて、城内へは横をすり抜けるようにして入ってゆくので、踏み込んだりしないよう十分に注意されたい。
さて登り口を探すと、鳥居のすぐ内側まで戻ったところに、カーブしながら登ってゆく道形が見える。
ここから登るのが良いだろう。
登ってゆくと、何となく虎口のようなところが…
そして、尾根の西の方へ細長く伸びる帯曲輪のようなところに出た。
ここから北の方にも尾根は伸びているが、土塁のように細いまま終わっている。
物見台などは無い。
ここから南の尾根上を踏跡が伸びていて、主郭まで行くことができる。
途中に何かの石碑。
そして、ササヤブの中の道をだらだら登っていき、よく分からないうちに削平地らしいところに出る。
ここが主郭らしい。
曲輪じたいも凸凹していて、さらにササヤブにも覆われていて、ようすがよく分からない。
東側の端に、人の背丈より少し低い盛り上がりがあるようだ…
登城口の説明板にある、物見台らしい。
裏側はちょうど斜面にブルーシートが掛けられていたあたりで、石垣が見つかったのはこのあたりか…
南の方へ進むと視界がひらけ、一段下に広い曲輪が見えてくる。
ここは城内でも一番広い曲輪だろう。
ヤブがなく全体を見渡せるのもイイ✨
東の端まで行って振り返ると、主郭の端っこに構えていた櫓台と、下の斜面にブルーシートが掛けられているようすが見える。
やっぱり、真下。大切な施設だったのだろう。
さらに進むと、少し右寄りにササヤブで覆われた広大な曲輪😮
いま立っている曲輪と同じぐらいの広さがある。
降りてみると、間の段がハッキリ見えている。
空堀や土塁などで仕切っていない境界では、相当見やすいだろう。
この曲輪はササヤブで覆われていたので、中には入らなかった。
南東側にだけ、かなり立派な土塁が残っていた😮
足利城に移る前に関東管領上杉氏の家宰をつとめていた長尾氏の城だからか、渡良瀬川の蛇行の先っぽに盛り上がった上手い場所を選んで、素朴ながら手堅くまとめた城、という感じがする。
今は樹林に覆われて眺望は無いが、往時は渡良瀬川の対岸や足利の町も一望のもとだったろうし、立地の妙を味わえる城かも知れないな…
★岩井山城
栃木県足利市岩井町
エコアールグリーンプラザの駐車場利用。
平山城
(2024年12月23日 記)