入江野城は那珂川に流れ込む荒川の喜連川から3kmほど下流の右岸に伸びる低山の中にある。
那須一族の庶流佐久山氏が築いた城。もとは箒川沿いの佐久山城を居城としていたが、1563年に時の城主佐久山義隆が謀殺されたうえに城も福山資孝に落とされ、ここに移ってきたのが始まりという。猛将として知られていた義隆だが他家に警戒され、うずら狩りに誘い出され殺害されたという。この地に城を築いた佐久山泰秀は入江氏を名乗って住みつくも、20年少々後の1586年に那須資晴に攻め滅ぼされ、城もそのまま廃されたとのこと。
北東の山裾に並ぶ民家を避けつつ八溝グリーンライン沿いから直登するのが良い。民家を避けようと南側から入っても、猛烈なヤブと起伏に乏しく目標物のない地形に苦しまされる。
登城道は無いという事前情報だったが、ホントに無い😱
斜面の登れそうなところを探して、なんとか北に派生する尾根に登り詰める。それほど荒れていない竹ヤブなので、斜度はかなりキツイがどうにか登れる。
登り詰めた尾根は、土橋のような細さ。
ここをひたすら登る。
ひと登りで、一軒家ぐらいの広さの平場に登り詰めた。
ここは主郭部の4段ある曲輪の最下段だった。
この時は城内のどこに出たのか分からなかったノダ…🤣
登りついたのが、曲輪が多く並ぶ主郭北東の尾根の1本西隣から登ったようだった。
それを認識するのに周りを30分ぐらいウロウロした…😅
主郭まわりをウロウロしているうちに、北東のかなり下の方に尾根が伸びているのを見つけたので、そちらへ入ってみる。
一見して、尾根がどこに続いているか分からないような急傾斜での下り…💦
降りてゆくと、三角形をした曲輪に出た。
尾根の裾に堀状が入っているか。
その先は、細めの尾根。
傾斜は緩くなるが、だいぶ荒れている。
尾根の右側、下の方にかなりハッキリと帯曲輪が見える。
尾根線の左側に張り付くように、小さな曲輪もある。
ここからほぼ平坦な尾根を進むと間もなく、尾根の末端が見えてくる。
竹が伐採されて、視界がひらけてくる。
目の前の、丸裸にされた山肌に刻まれた堀切😮
一瞬、牧之原の勝間田城が脳裏を横切る光景…
堀切は深さ1メートルぐらいの、ごくささやかなやつ。
その向こう側に、三角形をした曲輪。
これが正真正銘の尾根末端で、すぐ下に麓の民家が見える。
手前から右の裾を並行してきた帯曲輪は、ここで下に回り込んでいるようす。
ここから下はけっこうなヤブだし、下はすぐ民家しかも山が丸裸なので、見咎められないよう早々に引き返した💨💦
主郭を前にすると、その威圧感ったら無い😮
ともかくも、ここを見逃さなくてヨカッタ…😅
北東の大手のような尾根から戻ってきて、さらに先へ。
ここからはササヤブとの戦いになりそう…💦
かなり急な2メートルばかりの斜面を登ると、それなりの広さのある平場に出た。
しかし、もう全体を見通せない…
ここは主郭の上段。
左端がヤブが少なそうなので入ってゆくと、土塁のような尾根が立ち上がっていた。
ここを登ると、これまた六畳一間より少し広いぐらいの曲輪。
ヤブと日差しで、様子まったく分からんな🙄
ここから北方向に尾根が出ていて、主郭はその懐まで広がっている。
ここを通り過ぎると、またまた細い尾根になる。
が、すぐ目の前…
デカ堀切っ🤯
ここまで曲輪はちっこいし尾根は細いし、たった1本あった堀切は深さ1メートルぐらいと小ぶりなやつばかりだったが、これはスケールが違う。
深さは4メートルぐらいだが向こう側の斜面は10メートルちかく上まで登っている😮
底に灌木が茂って、見栄えはイマイチ…
ここから登るのは、けっこうキツイ…💦
そして登った先は、かなりのヤブ尾根…
地面は見えるので滑落や迷い道の心配は無い
城はここまで。
南へ続く尾根は進むにつれて不明瞭になり、ヤブも濃くなってくる。
城の南側を細く荒れた道が通っているが、その脇がクズの蔓が網のように絡みつく凄まじいヤブで、おまけに場所によっては道に向かって下るのではなく登り。
北側へ降りるよりずっと労力を費やすので、元来た方へ引き返すのが良いだろう。
広大な城域を持ち土塁や空堀が縦横に張り巡らされた佐久山城と比べると、なんという落ちぶれようか、との驚きを禁じ得ないだろう…
ライバルとの争いに敗れた者を待ち受ける過酷な運命、そして戦国時代が大名家中にあっても弱肉強食の残酷な時代であったことを、これ以上ない形で今の世の伝えているといえる、というところだろうか…
★入江野城
栃木県那須烏山市三箇
車を停める場所は近くには無い。城までの道もないので誤って民家の庭先に降りないよう注意。
山城
(2024年11月5日 記)