高井城は取手の中心地から北の方へ4kmほど、小貝川が大きく蛇行する少し上流側右岸の台地端にある。関東鉄道常総線ゆめみ野駅から北へ1km少しで、城址公園になっている。
このあたりを知行地としていた相馬氏の城。築城時期は明らかでないとのこと。天正十八年(1590年)の小田原合戦で北条氏について戦った相馬氏は守谷城を中心に守りを固め、この城にも小次郎胤永を置いて登場したが結局開城した。城はそのまま廃されたという。
我孫子の根戸城から常磐線、関鉄線と乗り継いで、ゆめみ野駅から徒歩で向かった。
駅前からの道は城の手前で途切れるので、右か左に迂回して進む。
公園の前まで行く道の入り口には、この案内。
手作り感マッシブ😮
道は段丘から緩やかに下っていき、谷戸の中に入る。
すぐに、右側に登ってゆく道が現れるので、ここへ入ってゆく。
この谷戸は城の西側を守る堀で、守谷城と似た感じ。
道はさっそく竪堀状に登っているが、車が通れるように切り広げられた感じ…
右側にちっちゃな曲輪らしいところがある。
調べたら、ここに井戸があるというので、登ってみる。
曲輪は全体に外傾している。
そして、端のほうに穴のようなものが口を開けている。
貯水池のようなものだったか?
外は一段低くなっている。
そのまま谷戸に降りているが、これが空堀に見える…💦
井戸郭の向こう側には、南西の方に空堀が伸びているらしい。
だが真冬ならともかく、ソコソコのヤブでも蚊が群れをなして飛び回る今、奥に突っ込むのは厳しい。
どこで民家の庭に突っ込んじゃうかも分からないので、道に戻ってそのまま登る。
突き当りに説明板が立っているのが見える。
ここから左に主郭の虎口がある。
道は竪堀状から右にそれているが、往時は主郭の虎口前に向かってまっすぐ登っていたようだ。
主郭に入る前に、右の方に第3郭が広がる。
手前側は草が刈られ、奥はヤブのままのようだ。
直角に折れた道より少し高くはなっているようだが、虎口などは無いようす。
では。主郭へ💨
土塁を深くえぐり取った、立派な虎口が開口している😮
両側の土塁は、高さ3メートルぐらいありそう。
左は灌木、右は竹ヤブの中だった…
主郭はソフトボールが出来るぐらいの広さか。
周囲はぐるりと土塁に囲まれているようだ。
まずは周囲の土塁を見て回るか。
右へ進んで東側の土塁は、荒れた竹ヤブの中…
北へ行くほど低くなるようだが、後から削り取ったかな?
北端では一旦土塁が消えるが、北側の辺に再び立ち上がっている。
西の谷戸に面した側には、土塁は無い。
外側に小さな帯曲輪らしいものがあった。
この近くの木の根元近くにスズメバチの巣があったようで、重低音の羽音を聞いたので速攻退散💨💦
しかし、羽音は響かせてたけどこちらに向かってこなかったな…
つぎは、虎口の西側へ。
先ほど登ってきた竪堀状に面した側の土塁は、北に行くにつれて低くなっている。
西の方に行くと、土塁が切れていて、向こう側の下に段郭が見える。
段郭はバドミントンコートぐらいの広さか。
ここは先ほど登ってきた竪堀状の道を見下ろせる位置にあって、ここから侵入してくる寄せ手を迎撃するのに重要な曲輪だろう。
寄せ手は城を前にいきなり弓矢や投石で上から攻撃されることになるが、守る側もここを破られたら郭内に突入されるので、後が無い必死の守りだったろう。
この曲輪からは、西の切岸をトラバースする武者走り状が出ている。
ここから見上げる主郭の段。
よく見ると、下にもう一段😮
通路状遺構は2段あったようだ。
さらに進むと、前方右側が柵されていた。
ちょうど第2郭がある場所の西側、説明板の縄張図では枡形状遺構となっているところ。柵の向こうの曲輪内は人の家の庭になっているようす。
間に堀などはなく、切岸の下にそのまま第2郭が広がっているようだ。
庭の内部が写らないように、切岸だけを見上げる。
このあと、東に広がる外郭のところも歩き回ってみたが、めぼしい遺構は残っていないようす。
主郭部の南西に隣り合う馬場の外側を守っていた土塁と櫓台が残っているようだったが、人の家の庭だったので撮影は避けた。
退城後は、北西に整備された高井城址公園へ。
城の西側を南北に走る谷戸は、また城を守る堀でもあった。
今はその外側を車道と歩道が走り、先に公園がある。
立派な案内が立つ。
ここから眺める城。
谷戸がそのまま堀になって、その向こう側に立ち上がっている様子が見える。
最後は、城の北を流れる小貝川へ。
上流の守谷城とは本城支城の関係で、川沿いの台地上に築かれたのも共通。
しかし、城よりはるかにデカい😮
★高井城
茨城県取手市下高井
城址公園の駐車場が利用可。関東鉄道常総線ゆめみ野駅から徒歩だと20分。
丘城
( 年 月 日 記)