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駒寄城は会津田島から西へ車で25分ぐらいのところを北に流れる伊南川沿い、伊南地区の南側の尾根末端に眠っている。南会津町指定有形文化財。

鎌倉開府ころの源頼朝による奥州征伐で功をあげた河原田盛光による築城と伝わる。中世を通じて河原田氏の居城であり、北のかた蘆名氏の麾下に入り、後に伊達氏に徹底抗戦するに及んで伊南川対岸に久川城を築いて移転したとか。

事前に調べたところでは、耕地になっていた時期に改変されたところもあるらしく、今残っている土木の跡がどこまで城の遺構かは定かでないとの情報もあった。


思いがけず三連休が取れたこの週末、初日の午後に会津田島の巨城鴫山城をどうにか制覇して勢いに乗ったが、この日はもう一つの巨城、久川城を後ろに回していたので、下山の時間を気にしながらの登城になった😅


下山したら時間を置かずに久川城攻めに取り掛かるつもりで、車は久川城大手外枡形の入口前に停め、徒歩で伊南川を渡って小学校に向かった。 

小学校の横を歩いていて、既に反対側に入口らしい説明板が見える。

校庭の南の方まで行って、東の山の方に入ってゆく道を進んでゆくと、その説明板が立っていた。


道が右カーブすると、その先にもう一つ説明板😮

こちらは町が有形文化財指定したときのものらしい。


そして、この説明板の横から山に登ってゆく小径に入るようだ。


この小径は地形図にも途中まで描かれている。

ちなみに舗装された林道を直進すると小白沢の左岸をぐんぐん遡って、城のある山頂の麓も通り過ぎてしまうらしい。

詰城まで行くにしても、ここから登るのが正だろう。

 

小径はわりとしっかりしていて、迷うことはないだろう。

すぐに右上が曲輪らしい切岸の下を登ってゆくようになり、正面が坂虎口のような形になる。


横の切岸、ナカナカにしっかり保っている😮


この上が、さっそく曲輪になっている。

城郭当時だったら、無防備なワタシは頭上からの攻撃でひとたまりもなかった…😨


上の曲輪へは、坂虎口へ登ってから右へ曲がり、一段高いところでさらに右に曲がる。

ちょっとヤブめだが、かすかに動線らしいカーブする堀状も通っている。


曲輪はテニスコートぐらいの、半島のような感じで山から突き出している。

ここも草や灌木で視界は悪く、下の小径の様子は見通せなかった…


小径はこの曲輪の前を素通りして、右に折れてさらに登ってゆく。


ヘアピンカーブを曲がると、右側に段々の曲輪らしいものが並んでいるのが見えてくる。


最初は、手前が一段低くなった奥に曲輪。

見た目が土間と座敷のよう。


この段には石積みも嵌め込まれているようだが、城の遺構かどうかはちょっと分からん…


奥に広がる曲輪は、かなりの奥行きがあるようだが、全体に谷方向に外傾している…


道は、その上の曲輪の横を通って入ってゆくようだ。


道は曲輪に入るところで右に折れて、こんどは左側に見える段々の横を登るようになる。


先ほど右手にあった曲輪が、道の右下に広がる。

学校の25メートルプールぐらいの広さ、矩形の曲輪らしい。


ここから眺める、段々と登る道。

なんか「駒寄ニュータウン跡」のような雰囲気も…😅


道の左側に続く段々の下側も、やはり奥行きが25メートルプールぐらいはある矩形をしているようす。

道に面した端っこ。


その上も、東西2段になっていた。

この段から向こう側が、広大な曲輪になっている。

左側は、これまた同じくらいの広さ、形の曲輪…


このあたりから遠望する城の奥が、また凄い😮


この西側の広大な曲輪は、一枚の平面ではなく細かい段が縦横に走っている。


道沿いには、井戸のような穴も…


道は曲輪の反対側、西を落ちる沢沿いまで行ってから、直角カーブで再び登り始める。

そのすぐ先に横たわっていたものが、想像をちょっと超えていた…


南会津 伊南 駒寄城 その2に続く)

 

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(2024年7月11日 記)