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躑躅ヶ崎館は甲斐守護から戦国大名となった武田信虎が永正十六年(1519年)に築いた城館で、それまで東の方の石和にあった川田館から移ってきて本拠地とした。翌年には詰城として要害山城も築かれ、居館と詰城が整うこととなった。

後を継いだ武田信玄、勝頼の時代を通じて本拠地であり、この時代に西曲輪などが増設されたとされる。武田氏が滅んだ後も天正十八年(1590年)に甲府城が築かれるまで徳川家康が甲斐国経営の拠点としており南西の梅翁曲輪は武田氏滅亡後の造成とされている。

昭和十三年(1938年)に国の史跡に指定、2006年に日本100名城に選ばれた。発掘調査や整備事業は東側の大手門周辺から着手され、西曲輪、北の曲輪群、そして南西の梅翁曲輪の順に進められた。現在は西曲輪までは完了、北と南西が事業中。


この日は団体旅行に参加していて城攻めはナシかと思ったが、コースに武田神社が組み込まれていたので、約30分の短時間だったが駆け足で主要部だけ見て回った。

それだけでは見逃しポイントが多かったので翌週に追試で訪問し、竜華池畔の遊亭と南西の梅翁曲輪を見て回り完結にした。

 

今は武田神社となった主郭には、堀を渡る橋の奥の階段を登って鳥居をくぐる。

写真では右側にチラッと見えている石垣は後補だろうか…?

 
橋から眺める堀は、水が張られている。
館の中から樹木が張り出して、半分近くが覆われている…

 
神社の境内は、コロナ禍明けだからか観光客や参拝客でごった返していた。
追試のときの本殿。

何しろ時間は30分しかない💦💦
こんなトコに長居は出来んとばかり、宝物殿をさ〜っと見学してから、急いで東側の大手に向かう。
神社の境内とはいえ、東側の土塁は高さ4メートルほどもある立派なもの😮
 
何しろツアー。
時間がないので駆け足で大手門から出る。
今は門柱が立っているだけだが、かつては櫓門とかが嵌め込まれてたのかな…?
 
外へは堀を土橋で渡っているが、その堀が…
灌木に覆い尽くされて見えん…😂
 
大手門から外に出ると、道路を挟んで東側に大手の遺構が広がっている。
近年発掘・整備されたばかりっぽい、小綺麗な遺跡公園といった雰囲気だ。観光客もパラパラ訪問しているようす。

まずは道路と並走するように、石塁が出迎えてくれる。
 
この石塁は武田氏滅亡後に築かれたもので、下から武田氏時代のものと思われる三日月堀が見つかったという。
武田氏の悲劇と時代の変遷が隠された石塁だったか…😮

石塁の向こう側に南北2段の曲輪が広がり、北端に土塁。
 
そして、この土塁にも階段が設えられていて、登ることができる。
階段以外のところにも踏み荒らされて出来たトレイルのようなものがあるが、出来れば階段から登った方がよかろう。

土塁の天端は真っ平😮

そして、外側を走る惣堀が、土塁の裾に沿っている。
この折れっぷり、カッコいいっしょ🙌

足元に北側虎口も✨

さて、この大手は上下二段からなっていて、北側が高い。
北側はしばふの原っぱだが、南側の低い方には発見された礎石をもとに厩の位置が示されている。

その東端には二つの虎口がある。
いまは北側の虎口が整備されている。
土塁にかなり広い切れ目を入れ、土橋で渡っている。
 
横の土塁は人の背丈ぐらいの高さで、一部が復元とか整備とかされたのかな…?
 
外には、土塁の裾を南北に走る立派な惣堀✨
その名のとおり、城館の最外周に巡らされた堀。
 
惣堀の外には車道が走っているが、向こう側にも草ぼうぼうの空間が広がる。

ここには何もないと思ったが…
車道を南に下ってゆくと、これは横掘か…?

そして南の端まで行くと…
これ、遺構の石垣にコンクリ擁壁を無造作に乗っけたんじゃないだろうな…😭

戻って来る途中に、南虎口もあった。
だいぶワイルドな雰囲気だが…

ここから南にまっすぐ伸びる惣堀もカッコいい✨

旅行当日は時間は無かったので駆け足の見学になったが、それでも大まかな作りはだいぶ分かった😊
そして1週間後の追試では、時間をかけて色々カッコいいところを見ることが出来た。

大手の最後に、北虎口から振り返る。
広々としてるな〜🙌
 
旅行中はここから城館の北側に並ぶ曲輪群へ行ったが、翌週の追試時に北東にあるという躑躅ヶ崎遊亭を見に行った。
ここがまた、不思議な表情をしていた😮

 

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(2024年6月17日 記)