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米倉城はJR総武本線飯倉駅から八日市場方向に1km強進んだあたりの北の丘陵の中にある。
麓の西光寺が目印だが、この寺は室町時代中期に飯倉城主の椎名氏が氏寺として創建したといい、ここも千葉一族と深い関わりを持っていることが想像出来るのだろう。
背後の森は「城の台」というそうだが城の来歴はよく分からないらしい。


この日は飯倉城へ登ったあとに一旦八日市場駅チカの下富谷城を訪問、時間が余ったので3城目としてこの城を訪問した。 

 

現在位置(Googleマップで)

麓の西光寺は山に抱かれた居館のような立地で、朱塗りの伽藍の立ち並ぶ立派な寺だった。


城へは、山門の前で左に折れて坂道を登ってゆく。

城郭っぽい面影は皆無だが、坂道の左手に僅かに顔をのぞかせている土の斜面が、北東に突き出た曲輪の切岸らしい。


曲輪内は墓地。

 

道は二つの曲輪の間を登っているが、底が完全にアスファルト敷きで、城の遺構という感じがしない…

右側の斜面の上に主郭がある。


右へカーブすると間もなく主郭に登るが、ここにも朱塗り門のような建物。


これは門らしいが、登って来た道とは直角の方を向いている😂

もともとの参道が南側から登ってきていたようで、そちらの方を向いているのだろう。

 

寺の方へ入らず道が続く西の方を見ると、堀底のように低くなった道が続いているが、両側の上の方には墓が並んでいる。


見ただけではこれが城の遺構かどうかは、全くわからない。

そして、この道を進むと全く遺構に出会えないまま西の畑へ出てしまう。

その脇に荒れてはいるが特上物の遺構が残っているが、それは後で…


それにしても遺構がどこに残っているか、とても分かりにくい城だな…

 

墓地のつづく南の方へ入ってみる。

ここも主郭の一部だったらしいが、平坦ではあるものの城郭っぽい雰囲気はすっかり無くなっている。

しかし、南の端っこには、土塁らしき盛り上がりがわずかに残る…


その外側は、ちょっと登降できないほど急峻な斜面になっている。

切岸加工されていたか?

土に埋まって登降するなとある階段の下には、帯曲輪のような平場も見える…😮


これだけで城のものかどうかは分からないが、上の斜面に傾斜を与えるための土木工事だった可能性は高いだろう。

さて、主郭のこの部分の西には空堀があるというのだが、一体どこに…

と思いながら、南西の端の高くなった墓の脇に登って覗き込んでみると…

 

ある…


幅10メートル無いぐらいだけど相当に深いだろコレ😮


墓地の横からだと、傾斜が強く高低差もあるので、降りるのはムリだろう。

主郭入口の門から西へ進んで、畑の前に出たここで、左側のヤブの中へ突っ込んでゆく🥶


すぐに、堀の側壁の急斜面の下りになる。

高低差はぐっと少なくなって堀底まで数メートルといったところだが、土が軟らかいので立木などに掴まりながら慎重に降りてゆく。

 

底に立つと、灌木のヤブで断面が見えない…💦

それでも、薬研のVがキレイに残っているのは分かる✨


降りてきた北の方を振り返ると、数メートル先で土壁に塞がれていた😮


往時はもっと北に続いていたのを、土で埋めたな…🥺

発掘調査すると出てくるに違いない…

 

南の方は、竪堀状になって麓へ降りているようだ。


ヤブはますます濃さを増し、下は民家らしい。

ここまでにしておくのが無難だろう。

 

この城には、他に墓地の北の方にやはり主郭の西の端だったらしい土塁が、長さ20メートルほど残っている。


もしかしたら往時は外側に南から堀がつながっていたかもしれないが、今は土で埋められている。

 

城跡らしいところが南側の墓地まわりだけで、往時の様子をイメージするのが相当に難しいところだった。

それでも、このあたりに多い入り組んだ丘陵の地形をうまく活かし、城の内外を仕切る空堀と土塁を入れた城だったのだろう。


多古町から千葉一族の城を辿る旅も、とうとう九十九里海岸につながる平野部まで来た…

次の目標どうしようか…😅

 

★米倉城(よねくらじょう)

千葉県匝瑳市八日市場ホ

西光寺の駐車場が利用できるか。土塁や空堀は墓地の裏側なので荒らさないよう注意したい。

丘城

 

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(2024年5月31日 記)