花倉城は藤枝の町中からだいぶ北のほう、瀬戸川を遡って滝沢川の合流点よりさらに北の左岸側山中に眠っている。南朝方の拠点らしい瀬戸谷城が川を挟んで対岸にある。
駿河府中の今川氏が室町時代を通じて持っていた城で、築城は文和二年(1353年)あるいはもっと前といわれるとのこと。戦国時代の天文五年(1536年)には今川氏の内紛「花倉の乱」の舞台となり、玄広恵探派が籠もって今川義元派に抗戦したが最後は陥落し、玄広恵探の自刃で幕を下ろした。城がその後どうなったかは不明らしい。
藤枝市の史跡。Wikipediaに記事がある。
小型の普通乗用車でギリギリながら、大手口まで車で入ることが出来る。但し駐車場は無い。
西方方面からはここ(→Googleマップで)から花倉城への案内にしたがって登ってゆく。車の側面を灌木で擦るほど狭いので麓から徒歩で入る方が良いだろう。
大手口には、説明板とベンチがある。
車は道のドンづまりに置くしかないので、大勢では無理だろう。
説明板には縄張図も描かれている。
以下、遺構の名前はこの図の表記に従う。
車道が終わると森の中に入り、すぐに標柱が姿を現す。
そのすぐ奥が、早速の土橋🙌
説明板では土橋1とされている。
左側にパイプと電線が埋まってるな…
歩き始めてすぐに城内に入れるのは実に嬉しい✨
城のすぐ手前までミカンや茶畑になってるようだが、そのおかげで手軽にアクセス出来るようになった事には感謝🙇
土橋を抜けて少し行くと、右手にごく浅い堀切状。
これが堀切3だが、何ともビミョ~
ここまでは単調な緩い登りだが、堀切から少し進むとかなりの急登に変わる。
木の根に覆い尽くされているような道を、一歩々々登ってゆく。
それでも100メートルも進むと、右手に「土橋」と書かれた標柱が立っている。
上を見ると、たしかに堀切らしいものが横切っている。
目の前まで登ってみると、なるほど標柱にあった土橋が、浅い堀切を渡っている。
この土橋は高さ50cmぐらいしか立ち上がっていないが、注目は左手のヤブの中の斜面。
かなりの急傾斜だが、幅5メートルちかい竪堀が一直線に降りているのが見える。
反対側は…浅くて見分けられないほどだった。
ヤブの中だし、日差しがモロに当たってパンダだし…😅
土橋2のすぐ上には「古道」という標柱が立っている。
道は並行する2本の竪堀状に変わる。
ここからは急登。
竪堀状は50メートル足らずで終わり、広めの尾根道になる。
見上げると、もうピークが近い感じ。
この少し上で突き当たりになる。
城へは右折。左は烏帽子形山への道とのこと。
左は主郭部から南西側へ降りてゆく尾根上を行くようなので、まずはそっちへ💨
早速、行く手に見えている盛り上がりの裾に、ただならぬ地割れが見えてくる…
いや見事なり🥳
ここが、説明板で言うところの堀切2。
右の主郭部と左に伸びる尾根との間を、スッパリ切っている。
南東へ落ちる竪堀が見事✨
尾根線あたりは…だいぶ大人しくなってるみたいですな💦
ちょうど杉の木が2本生えているあたりに土橋があって、主郭部と外側とを結んでいたらしい感じ。
堀切2の外側は小さく盛り上がり、その外に天端の平坦な尾根が続いている。
説明板では土壇状遺構となっているココ、L字に折れる土塁のカドのような感じ。
外に続く尾根は、天端は少し丸くなっているぐらいだが、かなりの傾斜で下っている。
北側の斜面の傾斜が緩く、防御するための工事は施されていなかった感じ。
間もなく森を抜けて日当たりの良い尾根になり、左側を下り始めて少し行った、この灌木のヤブの中に堀切5がある。
入ってみると…ほとんど手入れされていない感じ…💦
それでも、瀬戸ノ谷を挟んで西に向き合う瀬戸谷城よりは、ぜんぜんハッキリ残っている。
さて、南西の尾根はここまでなので、戻る〜💨
堀切2から隣の二の曲輪に登る踏跡があるが、まずは北の方へ。
堀切の外から二の曲輪の立ち上がり、杉の木がジャマだが相当な威容😮
城道との分岐まで戻って、城の方に入る。
すぐに「帯曲輪」という標柱が立っている。
北に向かって登っている、帯状の平場が伸びている。
人がすれ違えないほど狭く、帯曲輪というより武者走りと呼んだほうが似合いそうなところ。
奥へ入ってゆくと…
あるね…🤗
(藤枝 花倉城 その2に続く)
(2024年4月10日 記)