北山城は新名神高速に東海環状道がぶつかる新四日市JCTすぐそばの丘陵の中にある。ホントに狭い丘陵だが、高速道路のすぐ隣なのに崩されずにかなりの部分が残っている。
来歴などは不明だが新名神高速建設時に発掘調査が行われ、土木遺構が見つかったとのこと。その後は特に手を入れられていないようす。
南紀方面遠征も押しつまったこの日、例によってGoogleマップで見つけて訪問…😅
車1台やっとの道を下ってゆくと、正面左に見えてきた…
新名神の法面が樹木に覆われているのではなく、れっきとした城山だ。
さてこの城、登る道がない💦
適当な斜面を見つけて直登するしかないのだが、城の西半分は裾を用水路が通っていて、取り付けない。
城の東半分には障害物もなく、斜度も緩やかで比較的登りやすい。
そんなわけで、新四日市JCT近くの新名神の喧騒を聞きながら、城の北東側の斜面に取り付いた。
ちょうど砂利道が分岐するあたり。
道はないが、斜度は45°より緩い場所もあって、何とか登れそう。
そして登り着いたところは、城の中心から少し東に寄ったぐらいのところかな…?
削平はしっかりしていて、城だったら確かに曲輪だったらしいことは見て取れる。
西の方に横堀らしいものが見える…
いや横堀だけじゃないっ💦
土橋が架かってる🤯
事前に縄張図が見つからなかったし、高速道路に辛うじて崩されず残ったぐらいの小さな城というのでさほど期待していなかったのだが、この規模の城にしてはは凝った土木工事だ。
こんなものがあるとは思わなかった😮
両側の横堀は、草に覆われかけているだけでなく、だいぶ浅くなっているらしい…
左側
右側
そして、土橋を渡るとすぐに、奥の曲輪の虎口らしき。
左手、横堀の向こう側には櫓台のような盛り上がりも😮
これだけ厳重に守られているところを見ると、こちらが主郭か。
その曲輪上は、ササヤブに覆われていた…
ちょっと突っ切るのは無謀だな💦
南の方に見えた櫓台のようなところに登ってみる。
曲輪からの高さは5メートル無いぐらいか。
てっぺんは、だいぶ丸くなっていた。
外を通る横堀、上から眺めると立派やわ〜✨
小田原の総構堀ぐらいの断面がある?
すぐ向こうは、100km/hで車が行き交う新名神。
しかし、主郭の道路に面した側の土塁も、ギリギリで崩されずに残っていた。
この光景には感激✨
そして、そのすぐ先…
コレよく残ったなぁ🤯
この曲輪は南側にも虎口を持っていたようで、土塁の切れ目があった。
もう5メートル向こうは新東名の車道、立入禁止フェンスが目の前だ。
もうビックリだわ〜😮
このまま、この土塁沿いを軽くヤブコギしつつ進んでゆくと、西の方はヤブが少なく開けていた。
末端も土塁で守られているらしい。
土塁上に立って眺め回す。
外側に帯曲輪らしい平場が見えるな…
降り口が、土塁の北端にあった。
虎口というほど大げさではないが、巾3メートルぐらいの急な坂道になって降りている。
帯曲輪の幅も3メートルちょいぐらいか。
外側は切岸加工もされていないダランとした斜面…
いや、一段下が広い曲輪らしい😮
盛大に盛り土された新東名側を別にすれば、西も北も急斜面に囲まれているので、ここも城内だろう。
城はこの曲輪までらしい。
さて、先ほど降り立った帯曲輪は、主郭部の北側へと続いている。
20メートルほどまで行ったところで、切岸に入り込むように終わっていた。
さて曲輪まで登ったあとは、最初に登り着いたところと反対側を見に行くぞ~っ💨
全体にそんな広くはなく、駐屯できそうな人数は数百人といったところか。
中小の在地領主の居城に相応しい規模…なんだろうか。
この城と周辺一帯では新名神高速建設に伴って発掘調査が行われ、城のある南側で弥生時代〜古墳時代の住居の遺構が多数見つかったらしく、築城よりはるか以前から人の生活が営まれていたとのこと。
城は奇跡的に殆ど失われずに残ったが、より古い時代のものがだいぶ失われたようす。
あまり知られていないようだが、弥生時代から連綿と続いてきた人の営みの最後の生き証人として、何とか後世まで残ってほしいと思った。
★北山城
三重県四日市市小牧町
車を停める場所がない。周辺の道が狭く路駐も厳しい。駐車場所を見つけられるかどうかがカギか…
平山城
(2024年3月14日 記)