湯原城は佐久の街から南の方、旧臼田町の中心地から滝川沿いに西の方に入った右岸の山稜上に構えている。南の麓には湯原の集落があり、城のすぐ東側を湯原隧道が通っている。
承久の乱で京都に攻め上った鎌倉幕府の軍勢にあって宇治川を馬で渡ったという湯原六郎の子孫が居城としていた。戦国時代には依田氏が城を奪って居城としていたらしい。
前日は梅雨末期の大雨が降ったが、この日は雨も上がって蒸し暑くなっていた。
麓で虫除けスプレーを買って、いざ出陣💨
アプローチは中部横断道佐久臼田ICすぐ奥のこの交差点から北西の方に入って西へ西へと進んでゆき、湯原の集落に入って火の見櫓が見えてきたら直下の交差点を右折して山の方へ登ってゆく。
道は細い上に交差点が分かりにくく、完全な生活道路なので慎重に運転すべし。
→現在位置
隧道南側坑口の左側に石碑。
上の湯原城、依田氏のことを記したものではないか😮
しかも、建てたのが子孫の方らしい。
で、登道は坑口の隣と言うんだが、完全な緑の世界やんけ😱
ネット上には草刈りされ木の階段も付けられた様子が載っていたが…
さて、登れるのか…?💦
と思って入っていったら、中はササこそかぶっているけど、道はハッキリしていた。
これなら、登れる✨
登り始めて100メートル足らずで左側、倒竹の向こう側に墓地が見える。
城の一番下に伸びる段郭の一部かも知れないが、人のものだし、遠望だけにしておくか…
ここから登る道はないので、城に登るには斜面を直登するしか無さそう…
登ってきた道の右側斜面を少し登って、あとは竹ヤブの中を上へ上へと登って、まずは直上の尾根線を目指す💦
段を登った上の段郭のように見える平坦地の右の端まで行くと、城のある左上の方に登ってゆく踏跡らしいものにぶつかる。
地面は見えるし、踏跡を見つけられなくても真っ直ぐ登れる斜面なので、難しいルートファインディングではないだろう。
登りやすいところを拾いながら50メートルも登れば、尾根に到達する。
何となく堀切のようなものが刻まれていて、ここが城の東端とのこと。
堀切から西の方へ、何となく城塁のような尾根が続いている。
北側の一段低い帯曲輪のようなところに何となく踏跡らしいものが見えるが、尾根上を歩いても問題はない。
20メートルも進むと、最初の堀切らしいものが現れた。
尾根にしっかり切れ込みを入れている様子が、手前からだと分かる😮
が、縁に生えている太い数本の木がジャマや〜😵💫
木を避けて撮影…
北西側のつるんとした側から眺めるのが、いちばんソレらしいな…
この堀切、今は1メートルも掘れてないような浅いものだが、往時はちゃんと掘り込まれていたのだろう。
尾根はここから主郭に向けて登りになるところで、東側の防衛陣地にちょうど良さげな場所だ。
ここから先を見上げれば、何段かの段郭の上に主郭が見える。
主郭の切岸は、東側は土橋状の尾根で繋がってたか大人しくなっているようだったが、北東側はしっかり切り立っていた😮
下の方に帯曲輪らしいものも見える。
登りついたところは、主郭北東側を守っている土塁の上だった。
虎口らしい造作は全く無く、ここは動線ではないようだ…
この土塁、高さ1メートルぐらいで、主郭側は崩れてなだらかになっていた…
外側の切岸はしっかり残っている😮
主郭はテニスコート2面分ぐらいの広さか…?
中世の在地領主の居城という感じのスケールかな…
土塁で縁取られているのは北東〜北西側だけのようだ。
主郭の北西の端に、何となく虎口のようなものがあった。
造作の実にわかりにくい虎口だが、よく見ると斜面を北側から斜めに登ってきて、土塁の外に小さな枡形のような空間をつくって、そこから南北に両側に主郭に入る動線を入れている。
写真にするとサッパリなこの虎口だが、下にはかなりの広さの帯曲輪が繋がっている。
俯瞰すると広い堀切のようにも見える。
この帯曲輪は城の北西側を守るだけでなく、主郭への主要な動線が通り抜ける、重要な位置を占めているらしい。
この周りには、いろいろと面白い遺構があった…
(佐久 湯原城 その2に続く)
(2024年1月24日 記)