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舘山城は米沢の街から南西の方、大樽川と小樽川の合流点内側に迫り出してきた尾根末端に構えている。

道でいうと、喜多方との間が大峠道路で直結された国道121号が市街地に入る直前にほど近い。

戦国時代に入った16世紀になる頃に伊達氏麾下の新田氏により築城され、輝宗の隠居所も置かれた。豊臣秀吉の小田原合戦〜奥州仕置により伊達氏は米沢を追われて岩出山城に移動し、そのまま廃城になったと思われていたが、近年の発掘調査により後に米沢に入った上杉氏時代に積まれたと考えられる石垣などが見つかっている。

Wikipediaに記事がある。国指定史跡。


以前から見事な遺構のある城と聞いていたが訪問の機会なく、城ヤ6年目のGWを利用して、ようやく登城と相成った。


国道121号からの入口は、大樽川を渡る橋のすぐ会津寄りのこの交差点

細い道で分かりにくく、しかも会津側から右折で入ろうとすると案内が見えないので注意がいる。

すぐに大樽川にかかる細い橋を渡る。

正面に舘山発電所がでんと鎮座していて、敷地で行き止まりかと不安になるが、道は発電所の東側をすり抜け、広い草原に入っている。

この草原が、城の麓にあった東館の跡。


そのトバ口に駐車スペースが用意されているが、その入口に立っている標柱が…

これはほっこり気分になれる😊
もちろん安心して見学できる。有り難い🙇


隣には、目の前に広がる東館の説明板が立っている。


道はなおも続いて、小樽川の川岸ではたと終わっている。

しかし、この何かにぶった切られた感…


と思ったら、やっぱりここから対岸に橋が架かっていて、今も対岸に橋台が残っている、と説明板にあった。
館の目の前を街道が通ってたのね…😮

館跡は野球場が出来そうなほど広い。
右端に舘山発電所が見える。これも大正九年(1920年)運用開始という古参で、近代化産業遺産。


東館の全景。
発掘調査では庭園跡や石敷などが出土したとの由だが、今は何も見えない。
土で遺構を埋め戻して保護しているのだろう。

少し進むと、井戸跡があった。
円形の石列が、埋もれかけながらも顔を出している。
タンポポの黄色が鮮やか✨

今も大量の水が湧くってことは…
地中で排水しているのかな…?😮

近くの、コレ…
どう見ても、畝を入れられた畑のようにしか…😮
植えられているのは桜か何かの台木か…?
ぜんぶ枯れているようだけど…💦

山城部分への登り口は、さらに奥の森の中にある。
東館の前を通り抜けて登らせる動線だった…

案内と、パンフレットや杖などが備えられた小屋が立っているので、迷うことは無い。

説明板は地形図付き。

この説明板の向こう側で、道は斜面に取り付いて登り始める。
人がすれ違えそうな広い道で、これでも一部が破壊されたとの事。

虎口が近づくと、道はさらに広がる。
明治道とまでは行かないが、山城としてはかなり広いように思える。
大軍が出入りするのに一列縦隊では狭すぎて、この幅を標準にせざるを得なくなったか??
戦国末期の山城は、もはや寄せ手を一列縦隊にさせる防御のためだけでは収まらなくなっていた?

最後は左にカーブしつつ虎口へと刺さってゆく。
傍らの説明板には曲輪Ⅰ南側虎口とあり、テニスコートより少し狭いぐらいの空間。
曲輪へは、周りを囲む段を登らなければならない。
しっかりとした内枡形になっている。

この虎口から登った上にあるのが曲輪Ⅰで、この城の主郭と考えられているとの由。
まずは東の突端まで見に行ってみる。

先端は一段下がった腰曲輪になっている。
端っこには発電所の柵があり、立ち入り禁止になっている。

段にはスミレが咲いていた💕
私有地で山菜や山野草を採ってはいけません🚫

東側はこれ以上何もなさそうなので、反転して西の方へ。

曲輪Ⅰは東西に長くて、100メートルぐらいある。
建物などが何もないので広い空間に見えるが、往時は屋敷や兵舎などがひしめいていたんだろう…

向こうの樹林の中に、大きな土塁が見えてるな…
近づいてゆくと、土塁の北端の方に虎口らしいものが見えてくる。

これ、砂利とか積み上げられてる…😮

すぐ隣に立てられた説明板を見ると…
これは石垣を崩して出てきた栗石で虎口を塞いだらしいもので、破城痕だという…😨

正面が曲輪Ⅰ西端の土塁で、右側の懐に枡形の空間。
その左側、曲輪Ⅰへの出入口を塞ぐように砂利が積み上げられた様子。

枡形と、周りを囲む土塁。
往時は総石垣で、ここから崩された石垣の石で虎口が塞がれたってか?🤯

根石らしい最下段だけ残されて、上にあっただろう積石が全て剥ぎ取られて裏込石などがあらわになった?

ここは積石が2段と間詰石が残る。
上は裏込石が雪崩落ちんばかり…

枡形虎口を曲輪Ⅰの外側から見たところ。
発掘調査される前は、裏込石らしい川原石で埋め尽くされていたという。
往時の姿が偲ばれるとともに、破城という行為に込められた執念みたいなのが迫ってくる。
空恐ろしい光景だ…😨

虎口の前には、曲輪Ⅱとの間を仕切る横堀が南から入ってきている。
左側に枡形虎口、正面の土塁を挟んで右側から入ってくる空堀。

現地の案内では「堀切」となっている。
今は真ん中の土が盛り上がって二重にも見えるが、往時はもっと深い堀で、石垣を築く時に埋められたとの事。

虎口の北側へ行くと、竪堀になって落ちていた。

曲輪Ⅱの北側には、武者走り状の帯曲輪が設えられていた。

ともかくも、曲輪Ⅰの枡形虎口とそこに残る破城痕は、城内東半分では一番の見どころだった😮

城は西側にも続いているので、さらに進んでいった💨

米沢 舘山城 その2に続く)

 

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(2023年7月4日 記)