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雛祭りやDRCにうつつを抜かして城攻め忘れやがったなんて後ろ指さされれんよう、城、城っと💨


ここからは土の遺構出てくるよ〜🙌

 

→現在位置 

八ツ橋の架かる池の横が新曲輪の北端にあたる。
斜面の立ち上がりの外側に土塁、その内側は堀だったらしい。
沼沢の広がる岸寄りに土塁を築いて、わざわざ堀を入れている…😮

 
この堀は新曲輪の外側を這った後、岩槻城址公民館のところで途切れている。

野球場の方から入ってくる道があって、ここに大きな説明板が立っている。
 
往時の縄張図も描かれているのが有り難い。
まずは、左上の公民館周辺の地図を。
このあたりには新曲輪と鍛冶曲輪という2つの曲輪があり、多くの部分が埼玉県の史跡に指定されている。
ともに北条氏時代の1580年代に増設されたらしい。

 
左下には城全体の案内がある。
岩槻駅からここまで歩いてきた経路を全く辿れないほど今の町並みと違っているのが、恐るべき開発っぷりだ😮
愛宕神社が元荒川右岸から南に伸びる大構の途中にあること、大手門から先の城内が沼沢に浮かぶ島だった事が、よく分かる…
 
この説明板の裏側に新曲輪の北の方が広がるが、公民館が立っている他は植林の森だ。
外縁の土塁、ボサに覆われているが高さは3メートルほどもある😮
 

このあたりには、かつて城内にあったという移築建物などが置かれているので、一回りしてみる。

まずは、黒門。

城内のどこにあったかは不明だという。
風格を感じさせるが、真ん中左あたりの屋根が凹んでいるようで、ちょっと心配…

 

南側には、人形塚。

移築建物に混じって佇むこの塚は、1971年に当時の人形連合協会の手で建てられた。
岩槻は人形の町でもあったのね〜🤗

 
そして、その奥には「裏門」。
これも城内のどこにあった門かは不明ながら、左右の本柱の臍に刻まれた墨書銘によって建立や修理の時期が明らかになった、貴重な例という。
明治に廃城となってから民間に払い下げられて以降大切に保存され、1980年に此処に移されたとの事。
 
説明板にそのあらましが記されている。
市の指定文化財なのね✨
 

建物はここまでなので、新曲輪外周の空堀に戻るか💨


ここからは「ふるさと散策路」となって、さらに東へと続いている。

 

入ると、まずは真っ直ぐな空堀。

 
外側の土塁は、高さ1メートルぐらい。
土の城のご多分に漏れず、往時はもっと高かっただろう…
 
少し先に、堀障子が残っていた場所がある。
説明板が立っている。
 
足元を見ると、その場所は木橋で通り抜けるようになっている。
畝らしいものはもちろん見えないが、保護のために土で埋め戻したのだろう。
横に走る土管が何かと思ったら、これで畝を再現してるのね😮
 
この先で、堀はクランク状に折れ曲がる。
ちょうど進行方向左側が鍛冶曲輪になるあたりだ。
 
振り返る。
 
この折れ曲がり点から西に少し伸びた空堀が、上を走る道路に塞がれている…
上を車が通っているのが見える。
 
この向こう側がどうなっているか、後で見に行ってみよう…
 
堀は、ここから南へ真っ直ぐ伸びる。
散策路と思っていると意識が向かなそうだが、両側の斜面は相当に高い😮
 
突き当りで散策路は右に折れ、堀を塞ぐ築堤のようなところに階段で登っている。
 

縄張図と突き合わせると、鍛冶曲輪南端から馬出しの方に出る土橋だった😮
となると、登ってきた階段は空堀を散策路にするために付けられたモノだな~
両側が柵され、外側も背の高い🌿🌿で覆われているので、土橋の雰囲気はイマイチ分かりにくい…
 
ここから鍛冶曲輪の中を覗くと…
 
周りが柵されてはいるが、紛れもない土の城の曲輪だ。
周囲を囲む土塁も相当高く、厳つい表情をしている😮
その東側の土塁を、後補らしい公園入口がぶち抜いているのが見える…💦
 
さて鍛冶曲輪を囲む空堀は、馬出から入る土橋の向こうにまだ続いている。
階段を南側に降りて東に折れると、散歩道のいちばん東側の区間になる。

この空堀散策路は、公園の東側を通る大通りに出て終わる。

新曲輪と鍛冶曲輪の境界からここまでの空堀は、城の南側の仕切りとなっていて、外側の台地との間を断ち切っている。
鍛冶曲輪の虎口は、その中間あたりで城の内外を繋いでいるから、厳つい土橋を通らせるようにして寄せ手を一列縦隊にさせているわけだ。

さて、この土橋の外側には馬出が繋がっていると、公民館前の案内図にはあった。
ここに何か遺構が残っていないか、見に行ってみる事にした。
空堀の外側は、空堀に沿って細い道が走っていて、馬出から野球場まで行くことが出来る。
これを通って、土橋のところまで戻る。

見たところ、道がカーブしているところから鍛冶曲輪の虎口に繋がる土橋が出ているだけだが…

ちょい待てっ💦
左側の茂みの中…

土塁だっ❗

🌿🌿まみれで実に分かりづらいが、土橋の出ている数メートル四方の空間を囲うように、高さ1メートルばかりの土塁が隠れていた!😮
さらに外側には、巾4メートルほどもある空堀が囲んでいた🤯
すぐ隣が住宅地でありながら、こんなにハッキリとした土木遺構がヤブの中に埋もれているとは、何とも不思議な空間だった…😮

続いては、新曲輪と鍛冶曲輪の境界から始まりながら道路に埋もれた場所の反対側だっ💨

そこは裏門が移築されているところのすぐ南、野球場の南側の縁だった。
深い緑に覆われてるが…

小田原の総構かよ〜🤯

…と見まがうばかりの、巨大な空堀が真っ直ぐ西へと伸びていた。
右側が新曲輪、今は野球場になっている。
こんな都市化が進んだ中にありながら、底には落ち葉が積もって整備の手が入っていないようなのが不思議😮
まさか、こんなものが見られるとは❗

しかも、それだけではなかった…
この空堀から20メートルばかり南には…

これ二重空堀かっ🤯

さっきのよりはだいぶ小さく、🌿🌿に覆われてさらに様子が窺えないが、明らかな空堀が土塁を挟んで平行に西へと伸びていた😮
どちらも、ちょっと潜り込むのは憚られる雰囲気だった…

この新曲輪に鍛冶曲輪、南側が地続きだっただけに、防御の手が込んでるな… 
このあたりは戦国時代末期に豊臣秀吉の侵攻に備えて増設されたらしく、北条氏が受けた豊臣政権からのプレッシャーの巨大さを表しているのだろう。
岩槻城は天正十八年(1590年)の小田原合戦の時には伊達房実率いる2000の兵で籠城するも、浅野長吉らの2万の軍勢を前に半数が犠牲となって数日で落城した。

この結末が予想できての、この厳つい土木遺構なんだろう…🥺

さて野球場の向こう側にも空堀や土塁は続いているようだが、さすがに踏み込むのは憚られるし、何しろこの日は相当に寒かったし、これで引き揚げることにした😅

城址公園入口交差点に向かって北上してゆく。
途中、駐車場あたりから新曲輪の北端を望む。
ちょうど、三の丸との間の沼沢を望んでいた斜面だろう。

そして、少し北上すると道は登り坂になるが、その横の土むき出しの造成地…

これは、三の丸の南端だろう。

開発が進んで城址公園以外からは面影が消え失せたような岩槻城だが、その気になって見ると、地形とかにちゃんと痕跡をとどめてるのね🤗
去年夏の訪問ではイマイチ掴めなかった全容が、ようやっと見えてきたような気がした…

【完】

 

★岩槻城

埼玉県さいたま市岩槻区太田(城址公園)

城址公園の駐車場が数か所ある。利用時間は9時~21時。

平城

 

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(2023年2月28日 記)