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やはり西方城は下野の名城だった。

甘く見ていたワタシはバカだった…😅

 

城域が広大な上に見どころが多いのでボリューミー…

寝坊して昼近くの出撃で二条城とまとめて攻略するのは相当に厳しく、もう日没まで1時間を切っていた💦

どこまで見て回れるか、時間との戦いになってきた…

 

やっと本丸を南に通り抜け、南に横たわる空堀の西端の方へ下ってゆく。

東の方へ伸びる空堀はきれいに残っていて、土の曲線が美しい✨

 
隣の曲輪まで降りてから振り返った様子が、また…✨
 
降りた先の曲輪の反対側の虎口近くまで行くと、またまた見どころを案内する看板が立っている😆
こんどは「見どころ⑤ 屈曲する進入路」
 

主郭の南隣の曲輪への進入路を南〜西の切岸下をなぞるように付けて、ここへ入って来た寄せ手を折れ曲がる曲輪の入口で滞留させる仕掛けとの事。

それに、曲輪の入口に櫓門が立ってたかも知れないって?🤯

柱穴か何かが土の中に残ってないかなぁ🤗

 

その曲輪の入口

相当に幅が広く、なんだか大人しい印象…

 
出たところで振り返ると、進入路の東側を仕切る土塁がハッキリ😮
 

下に降りると、曲輪の入口に向かって斜めに登ってゆく様子がクッキリ😮

 
さらに下って振り返る。
左側に見える切岸の裾をなぞっていた動線が、奥の方で一気にグイと左にカーブして斜面を駆け登る😮
現代の道路でもありそうな光景✨
そして、ここ全体が枡形虎口、ということらしい😮
 
枡形虎口から外に出るところ、切岸の裾にドでかい案内図が…
しかし、サビサビ🥺
麓にあった縄張図と比べると、描き方がマンガチック…
 
その外は、切り通し状になった城道が東西に横断するように通り抜けている。
左が主郭側、右は南の丸のある方だが、ちゃんと土塁を積んで切り通しに仕立てている😮
 
すぐ右手に南の丸の虎口が構える。
 
南の丸も相当に広い曲輪だが、草が伸びて倒木などもあり、少し荒れた感じがする。
 
この奥に武者溜まりがあるらしいが、何しろ日没が40分後に迫っていて、入ってゆく余裕は無かった…

曲輪を出ようとして虎口脇の土塁を見やると、裾に空堀らしい凹が走っている😮
 
こういう、土塁の内側に空堀がある配置は、甲州の谷戸城で見たぐらいだな…
あ、白老仙台藩陣屋でも見た😮
 
城道に出て西へ行くと、西の丸に入る。
ここも倒木などがあり、奥はヤブっぽくなっている。
 
例の「見どころ」看板が西の端の虎口に立っているが、ここの遺構はだいぶ大人しくなっていた…
この先に入ってはいないが、すぐにゴルフ場にぶつかるのだろう…
 
ここの姿をハッキリさせるとなると、たぶん整備というか発掘調査が必要だろう。
 
さて、もう日没…
早く下山しないと…💦

切り通し道から戻る。
 
主郭方面の枡形虎口から東にも道が続いている。
東の丸方面に続いている道だ。
 
縄張図では、東の丸から最初に登ってきた道の方まで帯曲輪のようなものが繋がっているのが見えるので、そこから下山できることをアテにして行ってみる事にした😅
日没後に行動する装備や技術が無くて日没を迎えたときは、知らない道をアテにしないで来た道を戻るのが鉄則。何やってんだか…😮‍💨

 

道は虎口のような凹みを出るとすぐに下りになる。

今までの城道と比べて入る人が少ないらしく、踏跡はかなり見えにくくなる。

 
それでも、段郭を横目に凹んでいるところを辿って行けば、間違えることは無い。
動線の外側をガッチリ守る土塁が見える✨
 
そして、見どころ⑦の井戸跡が下に出てくるんだが…
 
あれか…?
 
こんな山ん中にアースダム?🤯
 
もう時間がなかったのでこんな遠くからしか撮らなかったのだが、目の前に現れたそれはどう見ても井戸ではなく、小さな谷を土塁で完全に塞いだダムのような風貌だった。
城で言う「井戸」は地下水を汲み上げる穴とは限らず、雨水や染み出し水を集めて貯める水の手そのものを指すことも多いが、それにしても…🤯
 
こういうのは小田原の石垣山城や三河の大給城で見かけたが、土だけでこんな築堤を作ってるのは初めて見た😮
 
築堤に登路は無いので左側から回り込んで登ると、上は浅く埋め立てられている。
廃城後に土砂が流れ込んで来たせいだろうが…💦
今は水をたたえていないが、雨水や上の斜面から染み出してきた水を集めるに申し分ない場所やね🤗
 

水の手のすぐ先に、最後になる見どころ「連続する枡形虎口」がある。

それは、水の手下の曲輪が細く絞られて、土塁の間から下ってゆくところから始まっていた。
 
何か、森の中への入口のようにも見えるな…

 
虎口の前は一段低くなっていて、これが上の枡形だろうか…
 
土塁の間から降りてゆくと、動線は右にカーブする。
 
カーブの外側には、番所のような小さな曲輪。
ここは、奥のほうで東の丸と繋がる馬出なのだそうだ。
 
そして、坂虎口のようなところから下に降りてゆく。
ここから下は、整備の手も届かないみたいだった…
 
水の手は城内でも最も重要な施設なので、奥まった場所にあって防備も厳重だった。
見た感じ、東の丸側、主郭南側ともに枡形虎口やその前を通らなければ入れないように動線を配置し、しかも本丸すぐ下の帯曲輪の直下に配置して目が届くようにしていたのだろう…
ワタシの想像だけど…😅

さて、いよいよ辺りが薄暗くなってきたが、ここから外へ出てしまうと登城口に戻れなくなりそうだったので、北の方に繋がる帯曲輪が見えないかと探していると、城道のカーブしているところの外側、すぐに降りられそうな斜面下にそれらしい平場が見えたので、降りてみる事にした。
城道の外側には、これも往時の石積みか??
 
もう暗すぎてAFではピントも合わん💦
 
帯曲輪状に降りてみると、東の方に大きな曲輪が見えた😮
そこが東の丸だった…
 
ここも野球場になりそうなぐらいに広大😮
広大な曲輪をたくさん並べた城全体でいうと、少なくとも数千の兵で守る城だろう。
西側には下から登ってくる虎口のようなものがある。
 
下には帯曲輪らしいものがあるが、城外へ出ようとしても今はゴルフ場…

これで城内の主だった曲輪は、だいたい見て回れた🙌

下山するぞ~💨


北に向かって伸びる帯曲輪のようなところをスタスタ歩いて行く。

間もなく、二の丸〜北の丸あたりが見える斜面下を通る。
もう登ってきた道まですぐ、というところだが…

足元に、何か見えている…🧐


ポールとロープで柵された中…
これ、池?🤯

ここ、庭園だったのか?🤯

現地に案内は無いし事前に調べたところでも何も出て来なかったので、分からないけど…
水の手と違って、周りに石を積んだりして、風雅な表情を見せている…
一乗谷朝倉氏遺跡の庭園を思い起こさせる…😮
庭園としたら池2つだけのささやかなものだが、山から染み出してくる水を集めて池をつくり、風雅な庭園にして楽しんでいたのかな…?

そういえば、戦国時代といえども将兵は四六時中出陣していたわけではなく、平時は御殿の前に池泉庭園を作ったりして風流を楽しんでいたような説明を見たような…(八王子城だったか)
今残っている西方城も、もはや戦争のための要塞だっただけでなく、日常生活もここで完結できる空間だったのか…?
それはまた、合戦が大規模になったり周辺の緊張が高まってきたりした事で、有事に素早く兵力を集結させて戦闘態勢に移行しなければならなくなった等で、それまでのような有事に立て籠もるためだけの存在ではいられなくなった、という事なんだろう。

近世城郭に向けての進化は、避けて通れなかったらしい…

 

★西方城

栃木県栃木市西方町元

麓の西方城見学者用駐車場を利用。

山城

 

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(2023年2月24日 記)