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城の案内は主郭部にしか無いが、その手前にも尾根を横断する長大な空堀や広大な曲輪などを見ることができ、なかなかに興味深かった。

車道はもう少し続いて、主郭部の西側の裾で終わっていた。

斜面から張り出すように駐車スペースが設えられていたが、縁の方に乗り込むと崩れるんじゃないかと心配になるぐらい、下の法面を補強らしい事をした跡がまるで無かった😨

それほど広いスペースでもないので、脱輪しないよう注意しつつ端の方に寄せて停めた。


城への登り口には、標柱と説明板が立っていた。

確かに戦国時代「山城」の典型と言うに相応しい城だろうな😂


説明板。
芦田城を拠点にした滋野、依田の両芦田氏の経歴が記されている。
調べると、この争いには信濃守護小笠原家の内紛が絡んでいたようで、経過がなかなかに複雑…😅
中世の将軍家から国人領主までしょっちゅう起きていた家どうしの争い、惣領対庶子の争いが絡み合って深まる戦乱の渦中に、この城もあったのだな…🙁

この説明板の裏が、早くも小さな段郭になっているらしい😮


この登城口から登ってゆくと、すぐ上に観音堂が立っている。
扉は閉じられているが、申し出れば中に入って参詣できるらしい。

観音堂の前も段郭らしい。

上の方へ行くには、観音堂の裏手に回る。

すぐに階段の設えられた登道が見えてくる。


登ってゆくと、途中右側に小さな帯曲輪が…

この城はあちこちに帯曲輪が設えられているらしい。


さらに登ると、主郭を囲んでいるらしい段郭に出る。

左の方に展望台が見える。


道はさらに上に登っている。

右手には主郭西側の帯曲輪が伸びているが、一部崩落しているか…?


展望台は、鉄骨造りのそれなりに気合が込もったものだったが、だいぶサビてるな…😨


主郭に行く前に、南側の帯曲輪の奥に行ってみるか。

狭い帯曲輪を東に進んでゆく。

 

南東の端あたりまで行くと、幅が広くなっていた。


東側はさらに広くなっているが、フキの園と化していた😮

単なる通路ではなく、建物なども置かれた曲輪だったんだろう…


北面は植林だった。


真ん中に、数十センチの段差が走っている。

長屋のような建物を置くことは出来るぐらいの幅はあるので、建物間の区画を区切ってたかな?


帯曲輪は北端の西の方で途切れていた。

展望台を向こうに見ながら登ってゆく踏跡のようなものが見えるが、切岸に後から刻まれたような感じで、本来の動線ではないだろう…


結局、主郭に入る動線らしいものは、最初に登りついた階段の設えられた…道しかないようなので、登ってみた。

コンクリだけど、いちおう献灯を両脇に従えた冠木門みたいのもあるぞ…😮


よく見たら、足元の切岸に石積みもあるやんけ🤯
実は行きで見落とし、帰りに気づいてアタフタしたのはナイショで…😅

やっぱりココが本物の虎口だったか…

主郭はソフトボール場ぐらいの広さか。

南北方向にやや長いようだ。

奥の方に祠が見える。


祠に見えるのは本体を覆っている小屋掛けらしい…
いちおう手入れはされている様子…

祠のそば、西側から周縁に土塁が立ち上がっている。

虎口に近い南の方は低いが北に進むにつれて高くなり、祠の近くは高さ1メートルほどある厳重なものになっていた😮


北辺ではさらに高い😮


主郭北東端あたりがもっとも高く、ここから外側を見下ろすと帯曲輪の北辺が見える。

落差10メートルはあるか🤯


南端だけは土塁が無く、いきなり切岸になって帯曲輪まで落ちていた。

🌿🌿がうるさくて見えるかな…?


見どころは、こんなところか。
中山道の芦田宿に近く、車で乗り入れられる山城ということだったが、なかなか興味深かった🧐
数百人を駐屯させられそうな最高所の主郭を中心とし、自然の孤立ピークを上手く使った単郭っぽい感じの縄張りだが、山城としては規模が大きめで、それなりの勢力の本拠地に相応しい城だった。
そして、乱世信州の申し子のような名将依田信蕃がこの城で生を受けた事が、この城の置かれていた立ち位置を雄弁に物語っているように思えた…

この城を退去するときに見送ってくれたこの子、依田信蕃の生まれ変わりかな…?

って、ソレかい😑

 

★芦田城

長野県北佐久郡立科町茂田井

主郭部の直下に駐車場あるが道が狭いので注意。

山城


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(2022年11月25日 記)