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赤田城は柏崎の街から北東に10km強、東福院周辺の鬱蒼とした森の中に構えている。

上杉家譜代の斎藤下野守が居城としていて、上杉景勝が会津に転封となった慶長二年(1597年)まで使われ続けた。

北条城、安田城など大きな山城が並ぶこのあたりを代表する城の一つということで、行ってみた。


県道73号鯨波宮川線で北陸道刈羽PAをまたぎ、南にある東福院を目指す。

そして赤田城の案内がある交差点から谷戸に入って車を走らせてゆくと、なんと立派な駐車場があった😮

 

最も近いのは駐車場脇の北方口から登る道だが、大手がもっと南の方らしいので、大手をめざしてみる。

大正六年に建てられたという、石の門構えを入ってゆく。


少し進むと、東福院の立派な山門が見えてくる😮



寛正二年(1461年)に赤田城主斎藤下野守の要請により創建され、以後斎藤家の庇護を受けたという。赤田城とは当初から深い関係があったようだ。

城へは、ここから直進ではなく、駐車場の奥に立つ案内のところから山道に入ってゆく。

駐車場を利用しないで東福院側から来ると、この入口はちょっと分かりづらい💦


遊歩道は階段がしっかり整備されている。

リキの入りようが凄い✨


少し登ったあと水平な植林の中の小径になり、ほどなく大手道にぶつかる。

城へは、左に折れて登ってゆく。


地図で見ると城は相当奥にあるように見えるが、そんなに登らないうちに城址まで400mの看板が出てきたから、思ったより近いようだ😊


遊歩道は、一旦尾根の上に出て、前方でボコッと盛り上がった尾根の北側をを登るようになる。

が、ここから尾根の反対側にも遺構が並んでいるらしいので、入ってみた💨

 

最初は、ヤブっぽい平坦地…


が、すぐ正面に相当な高さの切岸が突っ立っていた😮

登れそうなところがどこにもないし💦


仕方なく、南側の斜面をトラバースすることにした。

こことて相当な急斜面で、きちんと切岸加工されていた事を窺わせる。


登ってゆく動線らしいのが見当たらないので、仕方なく木の枝とかに掴まりながら曲輪に登った。

東西に細長く、尾根のてっぺんを削平しただけっぽい感じ😮


ここからは、西に少し下りつつ尾根が続いている。


尾根の先には、もう一面の曲輪があった。

久しぶりに緑の濃いぃ絵だな…😅


この曲輪の西端まで行くと、大きな堀切が見えた😮

急斜面だが、立木が多いので何とか降りられる…

 

底に降り立ってみたが、上から見たときの印象より幅がかなり広く、キリッとした感じではなかった。


…って思ったら、底を土橋で渡るタイプの堀切だったのネ😅

こういう堀切は、えてして浅く見える…


この堀切の先にも城の遺構は続いているらしいが、ちょっと労力が嵩みそうだったので引き返した。


堀切の北端から、遊歩道が下の方に見えるやないか…

しかし急斜面で、降りるのはキツそう💦

仕方なく、来たルートを辿って遊歩道に戻った…

 

さらに100メートル弱登ると、本丸への登り口が分岐している。

ここから右に入ってゆくが、案内も何もないのでうっかり通過しそうになった…😅


折れ曲がるところを正面のヤブに突っ込むと、本丸南西に隣接する二の丸になる。

コレが、相当な🌿🌿


さらに階段を登った先の坂虎口状の上が、本丸になる。

全体に南下がりになっている。


本丸にはあずま屋、そして斎藤下野守朝信城址碑が立つ。


南東側の一段下がったところにかなり大きな曲輪。


この曲輪からは南と東に尾根が伸びていて、おびただしい数の段郭が造成されているらしい。

だけど…

試しに東の尾根に入ってみたんだが…

コレハ、ナイワ…🥶

 

数十メートル突っ込んだが何も現れないので、それ以上突っ込むのはやめた。

キレイに整備されているところ以外は、自然が支配する領域で、都会育ちのワタシを気軽に踏み込ませてはくれないらしい💦

ムリはするまい…


この後は、三の丸の方から降りていった。


越後 刈羽 赤田城 その2に続く)

 

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(2022年5月27日 記)