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金山城は、鴨川の市街地から北北西、金山ダム湖の西の山中に構える城で、平安時代の終わりに長狭六郎 が居城にしていたという伝承があるらしい。

戦国時代には里見氏の城となっていたらしく、天正五年(1577年)に家臣の正木憲時が反旗を翻して敗れた際には、正木方に与して攻め落とされたらしい記録がある。

 

城へは、房総スカイライン(県道24号)の旧道に入って、さらに金山ダムに行く道へと入ってゆく。

 

→現在位置

谷沿いの細くなった道をしばらく進むとトンネルになるが、その前が二叉になっていて、その傍らに金山城への入口がここであるとの案内が立っている。


もちろん、石碑のとおり左に進み、集落の奥まで進む。

 

んだが、入口がどこだか分からん…💦

麓の集落まで入ったが車を停める所がなく、県道旧道まで戻って集会所だかの駐車場に停めた。

 

そして、城への道は集落を一番奥に入ったココだった。


カドを曲がると人の家に入っちゃうかと心配したが、ちゃんと山の方まで続いている。

普通の乗用車でここを曲がるのはムリだろう…


この民家のある先には、居館っぽい感じがする平坦地があった。

案内などは何もなく、恐らく人の土地なので確かめる術はないけど…💦


道は荒れているとはいえ舗装されていて、かなり上まで登っている😮

横に見える墓地までかと思ったら、さらに上も…


そして、とうとう城の前まで来てしまった…

奥に見えるのが郭4の虎口。


虎口も、ここまでの道と同様に後世車が通れるように広げられたらしく、左側の側壁の切削痕が新しめだった😮


右側の壁には、房総名物謎の穴…😮


郭4はほとんどが灌木のヤブで、突破しようとすると壮絶な戦いを強いられそうな有様だった😅

正面にだけ、車が通った跡のような道が伸びていた。


この道を奥まで行くと主郭部への登り口に辿り着ける事は、帰るときに分かった😅

 

虎口の横から東に続く尾根はメチャクチャ高く、小山のように見える。


これが南東に来ると、背丈以下に降りてくる。


このあたりから登ってみたが、外側の絶壁っぷりが内側とは対照的だった😮


天然の要害を利用したという立地が、よく分かる。

 

それにしても、やっぱりヤブとの格闘は避けられないようで…

東側には虎口があるというので入っていったが、笹ヤブに囲まれて何がなんだか分からない有様だった💦

まぁその場に行くと、土に土塁らしい凹凸があるのは見えるんだけど…


1つ目の虎口は、底に土管が嵌め込まれていた😮


その奥に進むと、樹木に覆われて薄暗くなったあたりに、突然桝形だか空堀だかが姿を現した🤯


これが虎口らしい。

一応、曲輪との間を仕切る土塁が1箇所だけ低くなっていて、ここから往来は出来るようす。


下には、直線的な石垣だか露岩だか…


そこを右に曲がると、これまた見事な岩盤堀切があった✨


ここを動線にしたかったのか…

しかし、その先はぷっつり途絶えていた。


それにしても、側壁に絡みつく木の根が、すごい生命力を感じさせる。

これぞ房総✨


それにしても、この場所の役割はよく分からん…🤔

堀切外側の尾根が、徒立ちの兵が何とか登れる程度の傾斜で、そこからの侵入を止めようとしてたのかな…?🤔

 

そこから主郭のある西の方へは、土塁沿いに歩いたほうがヤブが少ない。

しばらく進むと、曲輪の真東にあたる場所に切通しが現れた。


切通から出た道型は、下のダム湖に向かってかなりの急坂で落ちていた。

幅はトラックも通れそうなほど広く、城まで登ってきた道と同じくらいあった。

ダム建設時に掘削されたものという事らしい。

 

そのすぐ奥、土塁上の一段高いところにも、小さな開口部があった。


幅はソコソコあるが浅く、外側に動線らしいものも見えなかった。

右側には露岩。


横の土塁は立派✨


さて、この開口部から尾根づたいに登ってゆくと、3つの曲輪からなる主郭部がある。
下の曲輪からハッキリとした城道が登っているが、一度尾根に登ってしまったので、そのまま尾根づたいに登って行くことにした😅


(2022年3月2日 記)