東條英機の自殺未遂と山本太郎の軽率な行動 | 安濃爾鱒のノート

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1945年(昭和20年)9月11日、安濃爾鱒のブログ-東条英機

第40代内閣総理大臣、東條 英機(とうじょう ひでき)は、拳銃自殺を図る。

(失敗し、未遂におわる)

なぜ、9月11日なのか?
終戦の詔勅の8月15日でも、対連合国降伏文書への調印の9月2日でもなく、なぜ、9月11日なのか?

(阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣・陸軍大将は、8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃(割腹自決)している。)


それは、連合軍側の中に、昭和天皇を戦犯として処罰したいとする一派がいて、そういう連中が、昭和天皇を戦犯としてするための論拠となることを、東條首相に言わせようとしているので、それを阻止するために、彼は自ら死のうとしたのであった。、


連合国との戦争が始まるずーと前の1925年(大正14年)に、日本では既に、俗に言う「普通選挙法」、正確には衆議院議員選挙法(明治33年)の全面改正が施行され、成人男子は全て選挙権を持っていて、議会は国民に直接選ばれた議員によって構成され、内閣はそこから選ばれたもの、つまり、当時の日本国政府は、日本国民に選ばれたものによって運営されているものであって、昭和天皇は、名目上は最高権力者ではあったけれども、事実上は、国民が選んだ政府が決定した内容には、一切反対せず、政府の決定は全て認めた。これが、名目上、昭和天皇が最終的にお決めになったということとなっていた。

(ポツダム宣言受諾の決定の際は、政府が決定できなくて、天皇の裁可を仰いできたので天皇自らが裁定した)


連合軍側の中の、昭和天皇を戦犯として処罰したい一派は、この名目上の天皇の承認手続きを以って、天皇の戦争責任を問うことを企んでいた。その為に、東條首相に、天皇の承認があったことを言わせて、それを以って昭和天皇による開戦の決定、昭和天皇の命令があった証拠として、昭和天皇を戦犯として処罰しようとしていた。


東條首相は、それを阻止するために、自殺しようとした。

昭和天皇の、名目上の承認手続きがあったのは事実なので、極東軍事裁判で、その点を厳しく追及されれば、自分の口から それを裏付けることになることばが出てしまって、彼らの思惑どおりにすすむ可能性が高いと判断し、それを阻止するために、東條首相は、自分の口を封じようとしたのである。


結局、東條首相の自殺は失敗し、東條首相は、極東軍事裁判で、開戦の決定に際しては、昭和天皇のお考えに反して、自分達で考えて自分達で勝手に決めて実行した、という白々しい嘘の証言をして昭和天皇を守った。そんな信じがたいありえない嘘が通って、昭和天皇が裁かれるのを免れたのは、米国が天皇制の存続を望んでいたからであろう。が、それは結果論であって、9月11日の東條には判らない。


翻って、今回の山本太郎の軽率な行動であるが、なにが問題か、というと、

政府が執るべき政策について、天皇陛下に上奏すれば、その政策を実行するか否か、そして それを実行した場合の結果について、天皇陛下に責任が生じてしまう。

だから、国民は、天皇陛下に、政策について上奏してはならないのである。

だから、国民は、天皇陛下に、なにも直訴してはならないのである。


昭和天皇の戦争責任を回避するために、自殺を図った東條英機に比べ、今回の山本太郎の行為は、なんと浅はかなものであろうか。