下村博文 と 佐藤孝行 | 安濃爾鱒のノート

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下村博文・文科相派が、先日の山本太郎の園遊会での直訴事件を、
安濃爾鱒のブログ-田中正造

   「(山本太郎は)田中正造に匹敵する」

と評した、と伝わっている。もしこれが、「山本太郎は、自分では田中正造のような行為と自惚れているのかもしれないが、とんでもない勘違いだ。田中正造の行為と今回の山本太郎の行為は全然違う」と言ったのに誤って伝わった、もしくは、そう言いたかったのに言い間違えてしまった、というのなら、まだ判るが、もし下村文科相が本当に、いい間違いでなく本気で山本太郎の行為を「田中正造(の行為)に匹敵する」と評したのなら、こんどは、下村文科相自身が、

    「(下村博文は)佐藤孝行に匹敵する」

と評されるだろう。


佐藤 孝行(さとう こうこう、本名:佐藤 孝行(さとう たかゆき))

元衆議院議員(11期)、総務庁長官(第20代)、自民党総務会長(第34代)

1997年9月11日発足の第2次橋本内閣改造内閣で、総務庁長官として入閣した佐藤孝行は、就任記者会見で、過去にロッキード事件で逮捕されたことについて尋ねられ、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言って失笑をかった。



田中 正造(たなか しょうぞう)
衆議院議員
足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名
1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職し、12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。
途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。




追記(11月5日)

下村文科相は、その後訂正したようだ。


下村文科相は5日の閣議後会見で

  「率直に言って例えが悪く、誤解されやすかったと反省している」
  「田中正造は議員辞職し、立派な覚悟をもって直訴した。
  山本さんはそういう覚悟ではなく、あとのコメントを聞くと、単なる無知だったのかなという感じがする」
と延べ、 自身が田中正造を引き合いに山本参院議員を批判したことについて
 「比較するのは、田中正造に対して申し訳なかったという思い」

と述べたようだ。