死刑廃止論と宗教中毒 | 安濃爾鱒のノート

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 死刑廃止論者は しばしば「ヨーロッパ諸国は死刑廃止の国が多い」という様な事を言う。これを聞いて多くの人は、

 《 欧米猿真似をすることが正しいだなんて 馬鹿馬鹿しい

という言葉以外には何もいうことが無いんじゃないかと思うのだが、暇人の私は、このことにちょっと拘ってみた。

 多くの日本人にとって、死刑廃止論は笑止、死刑を廃止した国は愚か、という以上の言葉を持たないのではないかと思うが、ヨーロッパの灰汁を煮詰めたような社会であるラテンアメリカ諸国に住んでいたことのある私は、話はそう簡単には済まない、と思う。

 理由は、連中の「宗教中毒」の害にある。

 日本人は、正月は神社に初詣に行き、お盆はお寺に墓参りをして盆踊りをして、12月はクリスマスのイベントを行う、といった、上手い宗教の利用法を知っていて、且つ 実践しているが、海外をみると、こんな上手いことをやっている国は、殆ど無い。

 世界の多くの国では、その構成員の多くが 宗教中毒症 (:宗教依存症) であり、宗教の、上手い「利用」なんて、考えることすら出来ない。

 ここでいう宗教中毒症(:宗教依存症)、の「中毒症」「依存症」とは、「アルコール中毒(:アルコール依存症)」「麻薬中毒(:麻薬依存症)」における「中毒症」「依存症」という表現から借用したものである。アルコールは、本来、労働など、すべきことをした後の休息の道具などのように、上手く利用すれば有効なものだが、これを上手く利用できず、飲酒していい時か否かを自己管理できず、いわば、「酒に飲まれている」「酒に溺れている」人がいる。そういう人を
  「アルコール中毒(:アルコール依存症)」
と呼ぶ。麻薬は、本来、外科手術の際の麻酔や末期患者の苦痛緩和など、上手く利用すれば有効なものだが、これを上手く利用できず、麻薬を使ってしていいか否かを自己管理できず、いわば、「麻薬に溺れてている」人がいる。そういう人を
  「麻薬中毒(:麻薬依存症)」
とよぶ。

 そして、ヨーロッパのキリスト教徒の多くを見ると、宗教を上手く利用することができず、宗教に支配される人生を送っている。これはまさに、
  宗教中毒症(:宗教依存症)
である。

 日本では、宗教中毒症(:宗教依存症)の人は少数派なので、日本に篭っていると、この宗教中毒症(:宗教依存症)の人達の行動をみては「狂っている」と断じて、それで終わりにしてしまうのが常だが、現実の世界には、この宗教中毒症(:宗教依存症)の人達が多数派の社会が実在して、しかも沢山実在して、日本のような、宗教を上手く利用できる人が多い社会の方が珍しいのである。

 日本では、過去に、比叡山延暦寺の焼き討ちを敢行した 足利義教(:あしかが よしのり、室町幕府六代将軍)や 織田信長 という偉人が出て --敢えて言い切ってしまおう、「偉人」と-- 宗教中毒症(:宗教依存症)の害から(概ね)免れることとなり、今でも、多くの日本人は、宗教中毒(:宗教依存症)ではなく、宗教を上手く利用することが出来るのだが、一方、彼等のような蛮勇を揮って暴挙的手術を断行した先人を持ち得なかった ヨーロッパ諸国のような社会の場合、社会の構成員の多くは宗教中毒症(:宗教依存症)患者なのである。そして、歴史を振り返ってみれば、その害によって社会が大きなダメージを受けるということが度々おきている。

 世界史上、大量殺戮の実例を捜せば、「正義の名の下の殺戮」のケースがウンザリするほど沢山みつかる。
 そして、宗教上の理由による大量殺戮のケースもウンザリするほど沢山みつかる。
 大体、宗教上の理由による大量殺戮は、正義を掲げて行うものである。従って、構成員の中に宗教中毒症(:宗教依存症)の人が多い社会では、宗教から端を発した、正義を掲げた大量殺戮が、今までなんども起きてきたし、これからもどんどん起きる、と想像されるのである。

 これを阻止するには、宗教中毒症(:宗教依存症)の人を治療するか、さもなくば、正義の名の下の殺人を禁じるしかない。
 前者は前例がなく、現実問題として無理なので、残されたとりうる選択肢は、後者、正義の名の下の殺人を禁じるしかない。

 宗教中毒症(:宗教依存症)者が多い社会では、死刑はしない、というのは、アルコール中毒(:アルコール依存症)の人には車の免許を発行してはいけない、という考え方に似ている。

 アルコール中毒(:アルコール依存症)の人は、飲酒してよい時か否かを自己管理出来ないので、これから車を運転する、という時でも酒を飲んでしまう。従って、車の免許を持たせてはいけない、というのである。

 死刑制度というのは、社会の安全と安定と秩序を守るために、とても有効な制度なのであるが、宗教中毒症(:宗教依存症)者が多い社会ではそれ(:社会的正義の為の殺人)が暴走したときのデメリットが大きいので、メリット・デメリットをよく吟味して考え、採用・不採用を決めなければならない。

 宗教を上手く利用できる人が多い日本では、死刑廃止論は、愚か者の戯言に過ぎないのだが、ヨーロッパ諸国や、ヨーロッパの灰汁を煮詰めたような社会であるラテンアメリカ諸国のような宗教中毒(:宗教依存症)の人が多い社会では、「死刑廃止論」は、一概に "愚か" とは言い切れないのではないか、と私は思うのである。